一日目
石で出来た家の中、地に伏した男は微動だにせず、ただひたすらに祈りの言葉を捧げ続けている。悔やむ声色は僅かに震えているが、決して祈りが途切れる事はなく男は一向に立ち上がろうとはしなかった。その姿を褐色の男が見つめている。金環を細めてただ静かに男の傍らに立ち、見下ろしている。男は傍らの存在に気付いていないようであった。主よ、と唇が形を持つと忌々しいとした顔で膝をつき、祈る男の背に手を乗せた。それは確かに男の背を撫でているというのに、まるでいないのだというように祈りの言葉は続く。一体なにがそこまで男にさせるのか。その理由を褐色の男は知っていた。だが知り得る理由が、決して男を地に伏せさせるべきではないとも考えていた。もしくは、早急なる救いをもたらすべきなのだと。しかし祈る男に光は降り注ぐことはなく、太陽は沈みはじめていた。夜が世界を覆うまで、一度として地から離れなかった男の様子をうかがいにきたのだろう者達が扉を開け、声をかけ立ち上がるように促すも這いつくばったままの体は一向に地からは離れようとしなかった。祈りは続けられている。男は、彼らの言葉に一切を返さなかった。彼らは褐色の男の姿を無視した口ぶりで、話を続けている。諦め小さく息を吐き、扉を閉めて立ち去るまで誰一人として背を撫で続ける男に視線を向けることはなかった。彼らが立ち去った部屋は再び静寂と祈りに満ちあふれ、吐き出された言葉たちは地へと沈みこんでゆく。この部屋でどれほどの祈りが死んでいったのか、天に昇らぬ祈りを横目に褐色の男は屈み込む。祈る男の首筋に、仄かに浮かんだ汗を舌で舐めとった。夜はまだ深く、暗闇の去る気配はなかった。
二日目
再び大勢の者達が部屋の扉を開け放つ。一日が経ったが、祈る男は未だ地に伏していた。褐色の男は傍らに座り、ただそれを眺めるだけになっている。彼らはまた様々な言葉で、男を地から離そうとするが、やはり祈る男の声は止まらずに、部屋から祈りが絶えることはなかった。途方にくれた彼らの顔は、わずかに異質なものと対峙したときの恐怖が浮かんでいた。せめて食事だけでもと、彼らはパンとミルクを置いて部屋を出て行った。しかし、祈る男は瞬間もそれらに目を向けはしなかった。変わらずに地に伏して、祈りを捧げている。褐色の男は知っていた、それほどの祈りすべては結局のところ欠片として掬われることがないのだと。渇いた唇の動きを見つめながら、浅黒い腕が再び祈る男の背に触れる。そうしてまた、ゆっくりと撫でるのだ。祈る男の背を撫で、首筋に口をよせる。しわの浮かんだ皮膚の、その溝にそって唾液が伝い落ちていった。それから男は、若草の髪をかきわけて耳へと唇を寄せた。何をいうでもなしに吐息だけを、吹き込んでいる。悪魔のささやきにも近い光景であった。しかしそれをみるものは存在せず、やはり祈る男は一切を無視してただ天へ頭を垂れていた。再び扉が開くとき、隙間からは冷たい夜の空気が入り込んでいた。太陽が沈んだのだ。訪れた女はやつれていて、疲れた様子だった。ただ黙って祈る男と、手のつけられることがなかったパンとミルクを見遣る。褐色の男は、女のやつれた顔を眩しそうに眺めている。二人の間にはなんの言葉が交わされることもなく、女はやがてパンとミルクを手に部屋を出て行った。扉が閉じられる音は妙に軋みを含んでいた。褐色の男は閉じられた扉をみつめている。滲むものは夜の空気だけだ。
三日目
いよいよ彼らも焦燥とした様子で、祈る男の腕を取ろうとしたのだが、乾いた音がなり、痛みが手に走るとすぐさまに諦めた。代わりとばかりに、女の元へ戻れと口にしている。傍にいるべきだと、一体なんの傍に。傍らには相も変わらず褐色の男が連れ添っていた。彼らは焦燥とおそれを隠すこともなく、祈る男を押し黙ってみていた。やがて一人が去ろうというと、弾かれたように部屋から出て行った。祈りの部屋には、地に踞る男と、連れ添う男の二人だけになる。地に伏した時より随分と汚れてしまった男の皮膚には、油が浮き上がって、また髪もじとりと粘つきはじめていた。確かな汚れが祈る男を覆いこもうとしている。しかしそれでも男は、それらを気にすることもなく地に伏している。いつの間にか置いていかれていたパンとミルクに、つけられた手は褐色の男のものだった。祈る男をみやりながら、パンをちぎり口に含む。飲み込むミルクは生温い。姿勢を変えることなく、地に伏せ続ける男の体はきっと固まってしまっているに違いない。すべてを食べ、飲み干すと褐色の男は再び地へと踞る男の傍へ座り込んだ。そして、抱きしめるように腕を広げる。長い布が覆い隠すように垂れ下がり、また白くうねる蛇のような髪も、男の体へと降り注いでいた。しかし祈りは途切れることはない。扉を開けた女が、手を付けられずに残っていたパンとミルクを手に取って、窪んだ目で祈る男をちらとみると去ってゆく。ミルクには虫が沈んでいた。やがて夜が訪れると、冷気を取り込んで地面はいっそうに冷え込み始めた。男はいまだ立ち上がることはない。
四日目
幾度の太陽が昇ろうとも、祈りの部屋に満ちるものはただひたすらに光の差さぬ祈りのみであった。少なくなった彼らは一言、二言なにか声をかけて、変わらず反応がないとすぐさまに出て行った。諦めてしまったのであろう。しかしパンとミルクだけは、手がつけられることがなくとも置かれていた。褐色の男は指にはめられた指輪を撫でている。いくつもはめられた指輪はそれぞれが違った光をはなっているようにも思えた。ぬかるんだ空気が忍び寄ってくるのに、外は雨なのだということを知ると、地に伏す男はしとどに濡れた姿になる。冷たい雨が男の体を打ち付けて、容赦なく体温を奪ってゆく。僅かに震えた体は、かたくなに動こうとはしない。褐色の男はただひたすらに、その無様さを眺めている。それからまた近寄って、背を撫でた。男は初めて微笑んだ。慈しむ表情で、雨に濡れた男の耳へと顔を近づける。再び悪魔がささやく様が部屋で繰り返された。雨と埃と垢とにまみれ地に伏す男へ、悪魔は優しくなにかを語りかけていた。女が扉を開けて、パンとミルクを持ち去っていく。男をみやることもなかった。夜が訪れても、雨はやむことなく部屋に満ちあふれている。どれほどの時間をかけても、地に伏す男の罪を洗い流すだけのものにはなりえなかった。男は依然として罪に覆われたまま、主に祈りを捧げている。金の目が不愉快そうに瞬いていた。
五日目
いよいよ彼らが訪れることはなくなり、女もまた、食事を持ってくることをやめたようだった。地に伏す男は誰もいない部屋で、ひたすらに祈りを吐き出している。褐色の男は震える頬に手を這わせていた。主はすべてをみておられ、あらゆるものを白日へ映し出すが、しかしこの部屋だけは陰の中にあった。男の祈りが届くこともなく、地にのたうつ夥しい影に食われてゆく。祈る男の姿は、天からでは見渡せない地獄にあった。褐色の男が声を上げる。「救済の果てにあるものが、平和とは限らない」その声は悪魔の悲鳴が織り込まれたようにひび割れている。祈る男の声が、はじめて、止まった。輝き地上を赤く染めていた太陽が、一切の姿を隠して夜が訪れた時にだ。音もなくなった暗闇は、ひたすらに冷たいもので、声を発することすら躊躇われた。地面で潰され液状となっていた亡者たちから、散々に男が吐き出してきた祈りが立ち上る。それらは淡く光り、部屋の中で星々の如く散らばった。祈りをやめた男は顔を上げた。目の前に立つ、褐色の男を見遣ると、体を震わせて泣いた。老いた姿だった。静かに泣く老人に、なにをいうでもなく男は寄り添った。その枯れた手を取ると己の胸へと押し当てた。脈打つことのない体から、暗闇が姿を見せる。老人は怯え、主よ、と口にしようとするも叶う事はない。ぴったりと男の口が合わさって声を貪り尽くしてしまっていた。老人の体は弱く、男の為すが侭となった。枯れ果てた体は無骨な手に掴まれる度に軋んだ音を立てる。ねばついた熱気が立ちこめて、獣の息が響いていた。男が老人の体を揺り動かす度に、悲鳴が溢れ、それらは散らばった祈りの星を撃ち落とした。いまここではあらゆるが冒涜されている、主の手を穢さんとする悪徳が歓び犇めき合っている。男は幾度も幾度も老人の中へと精を吐き出していた。どろどろと溶けた罪が体を満たしているように思えて、老人はしわだらけの顔をさらにくしゃりと歪めた。白蛇の髪が体を這い回るのすら、やけに重く感じられて、逃げるようと手を伸ばすが、すぐさまに男の浅黒い手に捕らえられて終わる。ぬるりとした唾が老人の顔へと落ちてきた。男はひどく優しい顔をしていて、老人にはそれが信じられなかった。「あなたは、私があなたの元へ戻ってこないと口にし、そして己が私の元へゆくと続けた」男は老人を抱き上げて強く抱きしめる。体に打ち込まれた杭がより深くへと潜り込み、老人は呻くように声を上げた。「あなたは結局、私の元へやってはこなかったよ」老人が言葉の意味を汲み取れぬまま浮べた表情に、男は優しく続ける。「だがあなたは私が戻ってくることと、私の元へくることを望んでいた、それらを叶えよう」腹の深い場所を抉りこみ、老人の渇ききった体を満たし続ける。もはや星々は一つとして輝いてはおらず、あらゆる祈りが落とされくだけた後だった。それは男がみつめた未来の姿に似通っていた。
「あなたへ確かな平和を」
やがて朝日が訪れても、その部屋に誰もやってはこなかった。だが部屋の前に立ち止まる姿は、いくつかあった。扉をあけようとし、変わらず祈りの言葉が続いているのを聞くと頭を振って立ち去ってゆく、それの繰り返しだ。だから祈る男は変わらずに祈りを捧げていた。部屋の中では、おそらく、地に伏してひたすらに祈る男の姿があるのだろう。
七日目
子供が死んだ。