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 数日振りに太陽が姿を見せた昼下がりだった。教会で礼拝を終えた人々を見送っているとき、小さな人だかりを避けながら姿を見せたリオを、スコーピオは両手を広げ歓迎した。彼の体からアルコールの臭いがして、水を飲むかと一言投げるもリオは首を振っていつもの小部屋へと足を進めた。スコーピオは人気が失われつつある教会を見渡す。目に付く人影は見慣れたものばかりだ。再びリオへ目を向けてから、消沈した背を撫でる。
「つまるところあの男は、自分の向かう先が大いなる何百もの善であるからこそ、一人の人間を踏みにじるひとつの悪行を赦されて当然だと考えているんです。そんな男に対して俺が譲歩してやる必要があるのか? ご存知でしょうか、あの男が俺に行ったことを。とても……とても言えない、ごめんなさい、ご、ごめんなさい……。時間をください。主よ、あなたはいと高き主、情けあつく、寛大で、慈愛にあふれ、人に下した災いを悔やまれる方……勇気——勇気を得て必ずすべてをお伝えします。ぼくがなにをしたのかを、」
 薄暗い部屋の中、目の前で座り頭を抱えて蹲るリオの姿を見下ろしながら、スコーピオは彼にこそ何度でも赦しを口にしてやりたいと考える。このように憐れで柔らかさ故に曲げやすいものを支えるべきだ。悪人にスコーピオの時間を割く必要が? だがどのような悪人にも、平等に回心は恵まれ当然である。不適切な思考であった。スコーピオは眉を顰める。
「リオ、心のうちを詳らかにすることだけが勇気とはいわない。君はいまも立派に己を奮い立たせ話してくれた、それは勇気と何が違うだろうか」
「あ、ありがとう、スコーピオ……」
 窓から差し込む光の弱さは、リオに根を張る焦燥と罪悪を焼き切ることはできなさそうだ。立ち上がったリオへ再び水を勧めるも、彼は断り外へ向かい歩き始める。スコーピオは教会から出ていく後ろ姿を眺めながら手を動かし、握りしめたロザリオの十字架に口付けた。
「似たようなことを話した男がいなかったか? どうだっけな、アクエリアス。凡人は服従の生活をして、非凡なやつは思想によって法を踏み越えるってやつだよ」
「ラスコーリニコフだね、カプリコーン。なら、彼はそのうち己の無能と卑劣のために人を殺すぞ」
 どこからか覗き、聞き耳を立てたのだろう二人の男が軽快な口ぶりでスコーピオに近づいて、左右から背に腕が回される。スコーピオは握っていたロザリオの十字架をことさらに強く握りしめた。豪奢な造りをした十字の角が手のひらに食い込んだのだろう、血が指の間からにじみ出ている。
「冗談だろ! スコーピオさん、わざわざご自身を傷付けなさるなよ!」
「あぁ、こりゃ消毒したほうがいいよ。存外、世話のやけるお人だ」
 スコーピオが豪雪の日に迎え入れた二人の軍人により、試練ともいうべき夜を過ごしたのは先週のことであった。「そんなことを仰られても司祭様は既に我々の罪をお赦しになられたわけでありますし」カプリコーンの笑いを引き継いで、アクエリアスは口を開く。「罪が遂行された暁には、約束された慈しみにより我々のようなものにも回心の恵みは与えられる」しかしそれらも御心によるものであり、スコーピオは耐える必要があった。
「やぁ、それにしても良い天気だ」
 アクエリアスの声にスコーピオは瞬いて空を確かめる。薄雲が遠くに見えるも、青々としたまま日光の穴空く心地よい景色のはずだった。
「我々がこのように穏やかな日を迎えられるのも、ひとえにスコーピオさんの恵みです」
「真摯に生き抜いた価値があるってわけよ、あー、そういやシーツ洗っておかなにゃ」
 より善くあるためにね、カプリコーンが喉を鳴らしスコーピオの肩に頭を預ける。とたん、左目の洞に注がれた精液が未だ蟠っている如く不気味な激情がスコーピオの背骨を冷やし、暗い囁きが湧き出るかの如く両手が痺れた。これもまた、続けられる試練の名残であろうか。かたまりかけた口元を動かし、スコーピオは笑みを模った。誠実に、善く生きる。ひたむきに前をみて、井戸底の暗闇を心に写さぬようにする。その様子を嗅ぎ取ったのか、はたまた噛み合っただけか、アクエリアスが未だ十字架を握りしめたままのスコーピオの手を取った。
「なら俺は、我々を掬い上げる大切な手を看ようかな」
 指先を開かれ、十字架が取り上げられる。皮膚を裂き滲む血はいまだ赤々とし、新たな線を描いた。

 ***

 その夜、カプリコーンはたった今思い出したのだと言い訳をするように大げさな声を上げ、組み敷いていたスコーピオの体を強く引き寄せた。噛みしめられた唇の合間を苦い息が這い出ていく。
「アクエリアス、手紙、どうしたっけ?」
「手紙ぃ?」
 眼帯を取り払い露になっているスコーピオの左目を玩びながら、アクエリアスは首を傾げて気だるげに唸った。
「手紙、あ〜! あるよ、あるある」
「スコーピオさん、また唇噛んじゃって。苦行ってやつですかい?」
 アクエリアスがベッドを離れ、鞄の中を漁ったまま「来るまでの村にもいたよね、フルィストゥイってやつだっけ」と話す。
「明るい方々はどうして自傷なさるかね」
「あったよ! カプリコーン!」
 スコーピオの目の前に翳された手紙には、彼自身の名が書かれていた。微かな呻き声が溢れ、アクエリアスは弛んだスコーピオの口を指で抉じ開ける。
「俺たちそもそもこれを届けにきたんだった、なんで忘れちゃうかな」
「いやあ、そりゃあ、ねえ?」
 吐かれた唾液がスコーピオの口に落ちる。これは試練だ。御心によるもので、スコーピオが越えるべき時間である。
「弟さんから預かったんだ」
 越えられない試練はなく、より高くあるための、
「俺らの前で地雷で吹っ飛びましてね。なあ、アクエリアス、読んでやれよ。スコーピオさんは今、俺を慰めてくだすってて忙しいわけだし」
 口を抉じ開けていた指を放すと、アクエリアスはぬめりのついた指を拭うことなく手紙を開け、便せんを広げた。スコーピオの右目がしわが寄った紙を無意識に追いかける。アクエリアスが畏まった口ぶりで読み上げていく。スコーピオは弟が残した言葉の中で、茹だり身を捩らせている。兄への感謝と謝罪が響く。一度、喘いでしまえば口を閉じるのは難しく、カプリコーンの執拗な動きに全身を痙攣させるしかない。兄の幸せを祈る言葉が響く。罅割れた嬌声がスコーピオの喉から鋭く散らばった。身を離したカプリコーンの手が、スコーピオの乱れた赤い髪を整える。血流の音が鼓膜を低く鳴らし、茫々とした音が内を満たしている。今、私は心のひざをかがめてあなたの憐れみを求めます。スコーピオは目線をどこに向ければよいのか分からなくなった。目を閉じることすらできず、供物然として横たわっていた。アクエリアスがベッドに乗り上がり、ベルトを外している。罪を犯しました。足を開かれ、スコーピオは小さく喘いだ。カプリコーンはまだ汗で湿るスコーピオの髪を整え、上機嫌な声色で語りかける。
「よかったですなあ、スコーピオさん! これでリオさんに堂々と弟さんを重ねられる!」
 主よ、私は罪を犯しました。


前日譚

 雪が煙る。辺り一面が燃え盛り、木々の破裂する音と崩れ落ちひしゃげる音、悲鳴と銃声が折り混ざる中でアクエリアスは火の手が湧き始めた民家にいた。開け放たれた玄関からすぐに見える壁に凭れ座り込んでいた。脇腹から滲む血は止まりそうにない。熱気が増していく、肺が炙られている。ドアの向こう、切り取られた景色で走る姿が見える。逃げ惑いアクエリアスのいる家に逃げ込もうとしているのだろう、動きは真っ直ぐなものだった。それじゃダメだ、と独り言ちる。縦枠に手がかかった。泥と血と煤で汚れた顔はすぐさまに吹き飛んで脳漿はアクエリアスの近くまで落ちてくる。重たい音と共に倒れ込む体を踏みつけて男が姿を見せた。
「おっ、先客」
 アクエリアスを見下ろす男は充満しつつある煙を振り払うかのように手を振り咳払いをした。目線は滲む血を捉えている。
「助けやしょうか」
 床に膝を付いてアクエリアスの前髪を指先で掬い上げ「好みの色じゃねぇや」と続けてぼやいている。空気が破裂する音が鋭く響いてすぐ近くの天井が落ちる、砕けた破片が頬に当たり小さな傷が出来たのか痛みが走った。アクエリアスが頷くと男は肩を担ぎ立ち上がる。上背は同じほどだろうに難なく歩み始める男は見た目よりも力があるようだ。死体を踏みつけて外へと出る。アクエリアスはやっと口を開いた。冷気に黒煙のあくの強さが紛れ込む。
「俺になにを望まれます」
 つい先ほどまでの騒々しさはなく、銃声も悲鳴も尽きて家々が燃え盛る様だけが満ちている。流れ出る血が思考を鈍らせていく。「お兄さん、そりゃいけないよ」アクエリアスはなぜこの場所に立っているのだったか。
「見返りを求めて助けてちゃあ、善いことにならんでないの」
 背後から爆音と共に熱風が吹き抜ける。家が崩れたのだろう。男の声を最後にアクエリアスの意識は途絶えた。

 と、いうのがアクエリアスとカプリコーンの出会いであった。ステンドグラスが蓄えた月光を薄く色づかせた光の中で今、哄笑して人を嬲っている男との。部屋に飾られた祭壇に目をやる。純金で鋳造されただろう小さな像が飾られて、アクエリアスは質屋に持ち込んだ際の値段に思いを馳せる。
「あんなに時間をやったのに、どうして傷ひとつつけらんねぇかな!」
 カプリコーンの足が蹲る影の顎を蹴り上げ、口元に向かい踵で踏みつける。時間。それは確かに充分なほどであった。カプリコーンは時々ゲームをする。教会に押し入って、司祭相手に条件を突きつける。アクエリアスからすれば緩すぎるほどだ、彼は椅子に座ると後ろ手に縛れと言う。椅子の脚と己の足も縛りつけて良いとも付け足す。そして好きにしろと告げる。殺しても良いのだと。カプリコーンに傷をつけられれば、出入り口を陣取っているアクエリアスは道を譲る、傷付けなければこの部屋からは出られない。実際、何人かはゲームをクリアしている。カプリコーンの体を刺しているから、彼の体にはいくつか傷跡が残っていて、その数だけアクエリアスは約束通りに道を譲っていた。
「もう死んでない?」
 ぐったりと成すがままの体に気付き、カプリコーンへ声をかける。祭壇の盃を手にして振りかぶりかけたカプリコーンが、短く声を上げて動きを止める。
「ありゃ、ほんとだ」
 暴力の熱狂も過ぎたのかひどくつまらなそうな表情を浮かべ、カプリコーンは盃を放り投げた。乾いた音が数度鳴る。その顔は、司祭以外とのゲームを思い出す。あれはなんだったかとアクエリアスは首を傾げた。ともかく司祭ではなかった、ゲームをすることになった男は傷付ける前にとカプリコーンを犯し始めたのだ。そうじゃねえだろ、と言いたげな様子だった。だからアクエリアスは男を撃ち殺した。
「ほいじゃあ、ここは俺らのもんだな」
「あんまり売れそうなもの見当たらなかったけどね」
 結局、やりすぎない相手を選んでるだけだろうと言ったこともあった。その時カプリコーンは、じゃあはいとひどく軽い様子でアクエリアスにナイフを渡してきたので、彼の片耳を切り落としてやったっけ。と、思い出しながらアクエリアスは祭壇の像を手に取った。あちらこちらと家捜しをして、いくつかのものを鞄にしまい込む。そろそろ教会を出るかとカプリコーンに声をかけたが、手紙を読むのに集中しているのか気付かない。その横にあるベッドでは喉を刺された死体があった。壁に掛けられたコートから軍人であったと思われる。そういえば俺たちも同じか、とアクエリアスは再認識した。
「面白いことでも書いてあんの」
「うーん、」
 後ろから手紙を覗き込む。整った、流れる筆跡だ。柔らかく暖かな言葉、身を案じ先の安全と生きて帰ることを祈る綴り。熱心に想われていたことがよく分かる。アクエリアスは文面からでも伝わる愛情やらなにやらを羨ましく感じた。なのでおそらくカプリコーンも同じだろう。
「これだけ?」
 カプリコーンが手紙から目を離して、手にしていた封筒を翻す。受け取り封を開ければ送り主へ返すつもりだったろう便箋が出てくる。アクエリアスは読み終えると便箋を封筒へ入れ直す。カプリコーンが暖かな手紙を揺らしてから「分かち合いますか」と笑って半分に破る。千切られた片割れを受け取りアクエリアスは頷いた。