「先生の望みを叶える代わりに、俺のおねがいを聞いてくれないか」
 霧の晴れぬ朝にはそぐわない陽気な声が、狭い部屋に広がった。机に所狭しと並べられた朝食をリズムよく減らしていた男は、一向に減らない私の皿を少し見てから、どうだと伺いを立てる。男がこの部屋に乗り込んできてから始まった豪勢な朝食を、私はまだ一度として食べきれたことはなかった。腹に収めきれるのはいつだって一瞬だけで、最後の一口をやっと終わらせてから駆け込む先は洗面台と決まっている。間を置くことなく全てを吐き出す私の背を撫でて、男は満足そうに笑う、毎朝のことだ。
「私の望み、ですか」
「そうだ」男は大きく頷いた。「だが朝餉を減らしてくれってのはなしだ、こいつは先生の健康のためだしな」
 迫り上がる落胆を耐えて、ベーコンエッグを見下ろした。厚めのベーコンが油のつやを纏っているのに連鎖して、胃液の味が広がっていく。「望みなんて」吐き気を誤摩化すよう声を上げ、腹に手をやった。平坦な肉に当てられた手のひらに、望みという言葉が渦巻いている。話を続ける気はないらしい、男は食事を再開して、パンに手を伸ばしている。黒々と輝く瞳が己の姿を捉えていない今、そっと平らな腹を撫でる。望みは既に叶っているのだ。ともかく今は、目の前の夥しい朝食を片付けてしまわねばならない、知りたくもなかったが食事を意識から追い出すと、幾分か楽に腹に押し込めることが出来る。ぎこちなく握ったフォークの冷たさを、そのまま卵に突き立てた。
 英霊になってからも学ぶ機会はあるのかと、道術について記された本に目を通す。古びたそれは本来ならば読み解くことの出来ない文字であったが、そこは今の状況がどうにかしてしまっているらしい。何故選んだものがそれであったのか、自分自身に深く問いつめる気は今もない。実行しようと決めたのは己の性分であろう、魔術師とはおしなべてそういうものである。必要な素材は子供の遺骨と墓の土、そして布人形という比較的揃えやすいものだった。失敗したときの周りへの被害を抑えたいと伝えれば、簡単に倫敦に居を構えることがゆるされた。荷物をまとめ人目から隠れて部屋を出たときに行われた解放感を伴った呼吸は、私が如何にあの部屋から逃げ出したく、道術はその言い訳であることを知らしめた。いずれにしてもやると決めたことを変えるつもりはない、より深く術への理解を深めること、術に適した部屋を整えることに費やした日々は久方ぶりの安寧それであった。気が向いたときに街へ出て、あまり人のいない喫茶店で軽食を取る。それ以外は部屋にこもりきり、水も食事もとらずに術式の準備をする。これこそが私だ、と歓びすら感じたものだった。それらは素材を手に入れるため、霧の深い夜に墓地へ足を踏み入れるまでの話であったが。角灯を手に濃霧を歩む、僅かな先すら分からぬ霧が降り掛かる真夜中を歩むものは誰一人としていなかった。こんな日こそが、素材を手に入れるのに相応しい。錆びた門の隙間をくぐると、僅かに温度が下がった錯覚を起こす。墓地の静粛さは、街中のもの同じとは到底いえるものではなかった。麻袋を軽く持ち直して、墓地を見回す。とはいっても、霧でまともに見えはしないのだが。目当てのものを探そうと一歩踏み出した足を止める声は、いま思い出しても忌々しく、思考を一瞬にして奪うものだった。「ここにいたのか」と。あの殺風景な部屋が墓地を食い破って姿を現したかのように。
 蛇口を目一杯に捻れば勢いよく水がこぼれ落ちた。絶え間なく響く水音に、嘔吐く音が絡まっている。顔が火照って熱く、体中が痺れている、痛む喉を無視してまた咳込むように朝食を吐き出していると、そっと熱い手が背中に押し付けられた。泣き止まない子供をなだめすかそうとしているようだった。「先生、がんばったな」また満足げな笑みを浮べているに違いがない、この男は、私がむりやりに朝食を食べてからすぐさま吐き出す毎朝の行為を、本当に私のためになると思っているのだ。すべて吐ききって力が抜けた体を抱きとめて、額にキスを送る男の、気持ちが悪いこと。だが、それもあと少しの間だ。あと少し。
 墓地で素材を手に入れることは叶わなかった。この先もその手段をとる事はできないであろう。私に残された道は一つしかない。「一言もなく出て行かれるのは、寂しいもんだ」あの部屋で私と共に過ごした男は、眉を下げて言う。私は言葉を返すことが出来なかった。逃げられなかったのだ。麻袋を掴む手に、男の手が重ねられる。大げさなほど肩を震わせてしまったが、男は穏やかな笑みでこちらを見ている。「新しい家は……まさかここってんじゃないよな」連れて行けと言われている、私はそれを断ることが出来なかった。「先生?」もし私が、目の前の男に対してなんのおそれを抱く事もなく、なぜ貴方を部屋に呼ばねば? と問い返すことが出来ているのならば、あの部屋から逃げ出すこともなく、そもそも共に過ごすことすらなかったであろう。乾ききった口内と喉とで、唾を飲み込む真似をする。「体が冷えてる」握り込んだ指をほどかれて、麻袋が地面へと落ちる。持ち上げられた手が男の両手に包まれて、茹だる熱がゆっくりと移されていく。部屋へと戻る間、なぜ墓地にいたのかを問われることはなかった。それどころか会話一つとして交わされはしなかった。
 霊薬を呷り、深く息を吐く。喉から胃へと落ち、広がっていく熱は体内の時間を早めるものだ。静かに腹を撫でると平らさは既になく、僅かな膨らみにそって手が曲線を画いている。素材を手に入れることが叶わない以上、残された道は自分で作る、それだけだ。安寧に包まれていた場所が、あの部屋へと変質を遂げた日、最初から繰り返されていたとでもいうように躊躇いもなく悪夢は隅々まで広がっていった。男の汗が体へと落ちる感触は、蛆が落ちてきたかのようだ。気持ちの悪さに体をこわばらせると、男は優しく笑い私の髪を撫で上げた。残された道は一つしかない。私が行う術について、男へ説明をすることはなかった。もう終わった、失敗したとでも言ってしまえばよかったのだろうが、私はもはやこの術を成功させなければ、すべてが終わる日まで男の下から逃げることは出来ないのだという考えに支配されていた。子が孕める胎を作り出すことに成功した日、英霊というものは随分と自由がきくものだと改めて感歎し、あれほど嫌悪しかなかった行為に初めてよろこびを見いだして、胎の中が満たされるのを今かと待ってすらいた。私の望みをとうに叶えていると、あの男は気付くこともできないだろう。
 吐き出される料理だったものたちが小さな排水溝へ身を詰まらせて膨れ上がり気泡で弾けるのを見つめながら、こんなことで胎のものは育つのだろうかという気持ちになる。無意識に胎を撫でた手にねばついた感触が伝わった。己の体を見下ろすと、こらえきれなかった吐瀉物がへばりついている。霊薬で賄わねば、調合に必要なものは間に合っていただろうか。ふと伸ばされた手が服を掴み、留め具を外していく。「湯は張ってある」私の服をすっかり脱がせると、次は自分の服へと手をかけている。あらわになる体躯をぼんやりと眺める、傷一つとして存在しない見事なものだった。もはや共に湯浴みをすることが日常になってしまっている、男は私の腕を引き、湯気の立ちこめる浴室への扉を開けた。ここから私は自分で何かをする必要が一切になくなる。男が石鹸を泡立てて、指の股まで丁寧に私の体を洗い上げてしまうから。「私は、病人ではありませんよ」いつだったか思わず口をついて出た言葉だ。男はそれすら気にせずに、私の髪へ湯をかぶせながら笑った。なんといっていただろうか。後から伸びた腕が勢いをつけて私の体を引き寄せる。背中にあたる肉のかたさに身じろぎするも、居心地の悪さはなくならない。回された腕はしっかりと私の肩を抱き込んで、互いの境界を失わせようとしている。「どうだ先生、世話をされることには慣れたか」形を紛らわせながら声が響いて、そうだったと、私に告げられた言葉を思い出した。笑いながら髪を解してくる男は、変わりのない明るい声で「先生はすこし自分でやるってことを忘れた方がいい」と言ったのだ。なんだって一人でやりすぎるからと。指が肩をくすぐってから鎖骨を辿っていく。「ええ、そう……ですね、以前よりかは」頚窩を二、三度撫でてから真っ直ぐ下へと降りてゆく。傍目には分からない程度に膨らんだ腹に触れて気付いたのだろう、男は嬉し気な笑いを落とし言う。「肉がついた」私はこの男が、ひどく哀れに思えてしかたがなかった。献身が実を結んだと、疑うことのない男を。「ほら、先生」掴まれた手を腹の上へと置いて、また弾んだ声が耳をうった。「もう少しだ」まるで私のようなことを言う。もう少し、確かに、それはそうだろう。私が胎の子に求める成長の程度と、男が私に求める肉付きのよさは、おそらく同じほどに違いがなかった。首筋に芯のある柔らかな髪が触れた。肩に額を押し付ける男の表情を窺うことはできない、ただその手が更に下へ滑ったことへ深く息を吐く。男は、私の惨めな痕に触れるのを好んでいるようだった。真実そうであるのかは分からないが、臍を通りこした先に残る痕は皮膚が引き攣り醜いもので、好みでもしない限り触れようとはしないだろう。そもそも、痕などなくてもこんな場所に容易く触れてくるのは、おかしなことではある。これ以上のことは為されない、それだけが救いだ。あとで霊薬をのまなければ、その味を思い出しながら私は覚束なく体の力を抜いていった。
 霊薬は思った以上の効果を出している。これ以上の成長は、この胎で何が起きているかを男に伝えてしまうだろう。ここ数日でわずかに量の減った朝食を見ながら、拳一つ分程度には膨らんだ腹を撫でる。男は変わらずリズムよくそれらを口へ運んでいた。子おろしのために新たな薬を作らなければならない、出来れば即効性のあるものにしておこう、胎児が苦痛を感じるのかは分からないが。
 子が。
「先生」
 死なない。
「なにをやってるんだ」
 男が私の体を抱き寄せる。口元についたままの液を拭いながら、私の様子をうかがっている。あらゆる霊薬を飲み干してなお、胎のものは死ななかった。己の体への害も無視して煎じたものすら、この、胎の、子を殺すには到らなかった。感覚のなくなった手を男が握りしめていた。私を呼びなにをしていたのかを問う男の目は純真にこの身を貫いている。私は、しかし、空恐ろしい気持ちに支配され、まともに言葉を返すことができない。殺せなかったのだ、おそらく、早めた時間のままに胎児は成長していくに違いがない。ここまできてやっと、私は己の胎にいるものは正真正銘生きているのだということを理解した。男の精を受けた胎児が、私の胎を使い育っているのだと。どこまで、おぞましいものであるか。蟲毒の壷になった気分だ。胃が引き攣り、中のものを喉へと迫り上げさせる。動くことがままならないまま嘔吐する私から目をそらすことなく見続けている。「これは、特別なにかしなきゃならないってわけじゃないんだよな?」その通りだ。おそらく日が落ち、登るころには動けるようになっているはずだ。その時間で、胎児はどれだけ育つのだろう。気持ちが悪い、おそろしい。「ならひとまず、風呂へいこう」どうすれば殺すことが。
 余すところなく洗われたあと、男に抱えられ湯船へと浸かり込んだ。いまだ体はうまく動かせず、普段よりいっそう男の為すがままになっている。痕を撫でることなく、痺れた指先をほぐそうと触れる男は、何も喋らない。前より膨らんだ腹に気付かないわけではないだろうに、言及の声を上げることもなく私の指先で遊んでいる。節くれ立った指だ。いまはまだ虫のそれではない、ただの指だ。耳をくすぐる深い息づかいも、それ以外のなにものでもなかった。男への嫌悪が一切取り払われた感覚が、何処からもたらされているのか、そらすらも、
「まだ寝ていた方がいいんじゃないか」
 目覚めてはじめに男の顔を見ることになるのは、随分と繰り返されたことだった。いつの間に、どれほどを眠っていたのだろうか。男は数分、または数時間をおそらく私を眺めることに費やしたのだろう。寝顔を眺められることは気分のよいものではないが、伝えたところでやめるような男でもなかった。飽きないと一言、楽し気に返されるのは、抵抗の無意味さを突きつけられたようでもある。気怠さに包まれてはいるが動けないでもない。起き上がり窓へと視線を動かせば、今日も変わらずに立ちこめる霧だけが見てとれた。腹はなおいっそう膨らんでいる。男が問いを投げかけないことが、不気味に思えてくる。いまだ私から視線を外さない男は、いま、何を考えているのだろうか。
「もう大丈夫ですよ」私の声は、珍しく目立って響き渡った。
 それでもしばらくは押し黙ったまま、男の目は私を捉え続けていたが、やがて普段よりかは抑えられた調子で「そうか」と声が落とされた。
 なぜ男がここにいる。ナイフを突き立て損なった腹は、いくつもの浅い傷とにじみ出る血で覆われていた。座り込んだ床は夥しい羊膜液で濡れきっている。なぜ、男がここに。工房へ行くのを見られてはいないはずだったし、なにより扉には魔術で封がしてあったはずだ。だというのに、その扉はただ飾り気のないただの扉と成り果てて開き、男を工房へと招いている。眸に涙が張られていき、照明の灯りを吸い込み反射して煌めいている。
「手伝うぜ」どうやら腹を引き裂く気概を持てないらしい、ならばと伝えた俺の言葉はいよいよパラケルススの思考を真っ白に塗りつぶしたようだ。
 微動だにせず息を殺しこちらの行動を確認するだけとなっている、動きを追いかける目線は反射といってもいい。俺が隣りへ座り込むのも、骨細工の手からナイフを取り上げるのも、パラケルススは逐一追いかけていたが、反射だ。熟れきった肚の形を一度だけ確かめて、刃をそえる。なにを、とそれだけが優秀な脳漿を満たしている。「まあ、中身がなんだろうと」白く張り詰めた肚に刃先が埋められていく。「あまり気にしないことだ」一直線に切れ目が伸びるごとに、途切れた悲鳴が薄い唇を振るわせていた。ものを吐くのと同じく、悲鳴すらうまく吐き出すことが出来ないようだ。切り込みから血が溢れて出た。手を入れると随分と生温くぬかるんだ感触が皮膚を包み込む。赤児を引きずり出す間も、断続しながら悲鳴は吐き出されていた。痛みに耐えようとしているのか俺へと追い縋る様子は、種を着けた日以来に見るものだ。鳴き声が大きく空気を震わせる。繋がったままのへその緒を噛みちぎり、パラケルススへ抱かせてやるが、意識は広がり散ったままで赤児を認識できてはないようだ。先ほどのナイフを握らせてやっと、一点へと集中し始める。「人の形をしちゃいるが、あれだ、躊躇うこたないさ」鳴き止む気配は微塵もない。この赤児は、自身がどのような道をたどるのか理解しているようだった。僅かに開いた目は、物事を正確に理解するのに何よりも適した形だ。パラケルススの手を握り赤児の心臓へと刃先を導くと、怯えながら俺の顔へと目線を動かした。
「お前の望みを叶えてやる」
 なにを、と。パラケルススの思考は再び脆くなり、赤児の鳴き声はそいつが纏まることを邪魔していた。騒がしい音だけを反響し続けている。肚からはまだ血がつたい落ちようと滲み続け、当然のことだが顔色も悪くなってきている。まあ暫くは保つだろう。
「一人じゃどうやら無理らしいからな、けど俺は魔術がさっぱりだ、素を作るまでしか手伝えんが……準備はしてあるから失敗するなんてことはないだろ?」
 呼吸が浅くなっている。
「だから俺のおねがいを聞いてくれ。難しいことじゃないんだが、こうでもしないとやってくれそうにもないんでな」
 灯りが消えるのと同じく、鳴き声は一瞬で途絶えた。毒薬は跳ね返したが、ナイフは無理だったらしい、だがこれで刃も通さなければさてどうしたものかと悩む羽目になったろう。なんの音も立てなくなった物を、パラケルススは黙って見つめている。こうしてものを考えられなくなったパラケルススは、常より幾分と苦しむことがない。とまあ色々思わずにはいられないが、それよりもまずは“おねがい”をしなくては。今なら素直に聞いてくれるだろう。
「なあ先生、俺の名を呼んでくれ」