1.
白く象られた指先が焦らすように熱を撫で上げる、息を詰め、開いた目が捉えたものは薄暗い部屋だ。時計の針が一つ進む音が響いた。起き上がりベッドを降りる。フローリングの冷たさが熱の夢を追えた後では心地よく感じるものだ。窓を開け、ベランダへと出る。外はまだ夜が薄まり始めたばかりだった、日の出までは暫くあるだろう。室外機の上には昨晩に置いてそのままだった煙草と缶ビールがあった。煙草を一本取り出し、火をつける。安価なライターが勢いよく火柱を立てて、煙草を燃やすのをぼんやりと眺めつつ、微かに吹く風に体を冷やされ息をついた。紫煙を吸い込むごとに中途半端に投げ出された熱が絡めとられてゆき、ふっと口から追い出される。生温い夏の早朝は、まるであの日に初めて手にした熱のようにまどろっこしい。アーラシュは眉を顰めて、光が差し込みだした空を睨む。あのどうしようもない熱はまだ、体の中でくすぶり続けていた。片時も忘れられることのないままに数十年と経った今も体を苛む、悪夢としかいいようがなかった。じり、と指に熱さが灯る。すっかり短くなった煙草を缶の中に放り込んで部屋へと戻り、また室外機の上に置いたままにしてしまったと気付くも、冷房の効いた部屋から再び出るのは億劫に感じた。窓からの光で照らされる部屋に、殺風景だな、と他人事のよう思った。私物というものを持とうとは思わないせいなのかもしれない。服の類は壁にはめ込む形で作られている細長い押し入れの中に収まってしまうし、靴は二足あれば十分だ。紙皿や紙コップを使うので食器もありはしない。テレビも、ベッド脇に置かれたノートパソコンがある以上、買うことはないだろう。ベッドだけはキングサイズのものを買ったのだが、これは仕方のないことだ。アーラシュは改めて自室を観察してから、これから増やしていけばいいと結論付けた。きっと欲しいものがあれば、言ってくれるだろう。何もない部屋で唯一、騒がしい程に飾り付けられた壁へと視線を移す。アーラシュは、蕩けた笑みを浮べた。
2.
誰にしも忘れられない思い出というものはある。閃光のように鋭く網膜に焼き付いたものだ。アーラシュにとってのそれは、痩躯の男の形をとっていた。うつくしい男の形に穿たれた心は、決して埋められることなく明確な渇きを発している。随分と昔の出来事だというのに、衰えることもなくだ。
男がアーラシュの前に現れたのは、9回目の夏の日だった。
丘までの道すがら、長い間放置されていた空き家の窓が開け放たれているのをみて、アーラシュは新しい人が住むのだと思い当たり、その人を一目見ようと柵へ乗り出した。窓の近くに来てくれないだろうかといっそう身を乗り出していると「危ないですよ」としっとりとした声が耳をくすぐった。驚き声の方を向けば、大きめの帽子を被り草を手にした人がアーラシュをじっと見つめているではないか。柵に乗り出している自身の行動が途端に恥ずかしいものに感じて、アーラシュは顔を赤らめると慌てて地面へと降り立ち、それから声をかけてきた男をそっと見やった。真っ先に目に飛び込んだのは肌の白さだった。毟った草を持つ軍手から、すらりと伸びた腕は細く、太陽の光を反射して眩しいほどの白さをもっていた。袖口に潜り込む二の腕へかかった影を見つめると、その白さはやや青みを帯びていたので、不健康な印象を本来ならば与えるものだったのだろう。しかしアーラシュが目にしたのは、太陽の光を受けて輝く白い肌だった。
「……のどが、乾いているのですか?」再び霧雨が鼓膜をうった。草を置き、軍手から抜け出した細く長い指が額に浮き上がった汗を拭う。その動きにつられて注視した男の顔は、おそろしいほどに整っていた。アーラシュはあの空恐ろしいうつくしさを後にも先にも知らない、それほど蠱惑で形作られていた。しどろもどろになり服の裾を握りしめる。暑さだけではない汗がぽつぽつとにじみ出て、肌の上を滑っていった。男は小さく笑うと、汗でしめったアーラシュの肩へ手を置き、家の中に入るように促した。肩に触れたぬるい体温は溶けかけの氷のようだった。光を遮ってしまえば、顕著に涼しさが感ぜられる。座るようにいわれたソファの前で立ち尽くしながら、アーラシュは困り果てていた。心臓が忙しなく動いて体の熱を高めているというのに、うなじから不気味な冷たさが背筋と脳とを包み込んでいるのだ。二人分のコップを持ってきた男がまた小さく笑って「遠慮せずに座ってください」と言うのに、ヘソの奥がぴりぴりと痺れてくる。アーラシュが処理しきれない感覚に耐えきれずに泣き出すと、男は慌ててコップを机へと置いて、小さな体を抱き寄せた。どこか痛いのかと問いかけてくる声に返すことも出来ず嗚咽をこぼすアーラシュの背を、幾度か迷いように動いた手が撫でる。とん、とん、と優しくあやすように動く手と、首と肩とをくすぐる柔らかい髪の毛と、男の不思議なにおいとに囲まれながら、アーラシュがやっとのことで涙を抑えることが出来たのは数分後のことだった。
「ごめんなさい……」縮こまりながらコップを持つ手に力をこめる。男は謝罪に返すように、アーラシュの短く整えられた髪を撫でる。恥ずかしくてどうにかなりそうだった、またじわじわと目の奥が熱くなるのに気付いて、アーラシュは被りを振ってコップに注がれていた紅茶をあおった。口を満たしてから喉へ滑り落ちて体の中を冷やしていく。唇に触れた氷を招き入れてから、コップから口を離す。
「暑さにまいっていたんでしょうね、気にする事はないですよ」
微笑む男は、崩れるように落ちた前髪をそっと耳へかけるように掬い上げた。その動作一つにしても、アーラシュはまた己の体が、自由の利かないものに成り果てる感覚を覚える。あの指が先ほどまで背を撫でてくれていたのだと思うと、背骨が浮き上がるようなこそばゆい感触が広がった。
「あの、あ、ありがとうございま、した!」
「どういたしまして」
アーラシュが差し出したコップの口を囲うように指がかかる。口を押し当てていた場所にも指が触れていると気付いた時、アーラシュは自身の唇がくすぐられている気分になった。もぞもぞとしたそれを誤摩化そうと大きく声を上げる。男は驚いていたが、ややするとアーラシュの言葉に感謝の声をかけた。
草むしりが終わるころ、太陽は半分地平線に溶け込んでいた。アーラシュが差し出された紅茶を飲んでいると、着替えを終えた男が姿を現した。「送っていきますよ」男と手を繋いで歩きながら、アーラシュは自分の手がじわじわと汗をにじませるのに困っていた。男のさらりとした手に自身の茹だった体温は不愉快ではないだろうかと、なぜか気になってしかたがなかった。たった数分の距離が、更に短く、道がいつの間にか縮んでしまったのではないかと思う程、気付けばアーラシュの目には家の灯りが飛び込んでいた。男の手を引いて、開けた玄関から大きく母を呼ぶ。手が離せないという声がしてから、代わりに父が顔を見せた。男は頭を下げて、引っ越してきたものだと言葉を並べていた。アーラシュは、父と男が会話を交わしている中、繋いだ手を解くことが出来なかった。いやに離れ難く、より力を込めて握ってしまった手に男は困ったように笑うと、それに気付いた父がアーラシュの名を呼び窘める。それでも迷っていると、男はアーラシュの手の上にそっと手を置いて「次は遊びにきてください、アーラシュくん」と言葉を落とした。男の声が自分の名を紡いだことに体が一気に熱くなり、この急激な変化を悟られてはいけないとアーラシュは慌てて手を離した。父と再び言葉を交わしてから、頭を下げ去っていく背が閉じられる扉で見えなくなった。その日に、引っ越してきた男について父が母に話しているとき、アーラシュはやっとその名前を知ったのだった。
3.
「やあ、店長の入れる紅茶は本当に美味い」
陽気な声でアーラシュはカウンターの向こうにいる男へ言葉を投げかけた。線の細い頼りない体躯の男は、少しばかりの笑みを浮かべて礼の言葉を返した。しとどに濡れた紫陽花を思わせる声だ。ふわりとした布でコップを一つ一つ丁寧に拭いていた男は、思い出したようにアーラシュを見て問いかけた。
「あなたはいつも紅茶を頼まれますが、お好きなんですか?」
「ん、特別好きってわけでもないが、最初のときもそうだったからな」
「ああ、同じものを頼んでしまうとき、ありますよね」
店内にはアーラシュの他に数人の客しかいない。初めて訪れたときからずっと、どの時間帯にきても客入りの少ない店だった。だがそれでいいのだろう、男と店の雰囲気は大勢を迎えるようには出来ていないように思える。テーブルに腰掛けていた老人が立ち上がり、ゆったりとした足取りで出て行った。扉に備え付けられている鐘が小さく音を立て、僅かな熱気が店内に潜りこんできた。男がテーブルの食器を下げている音が耳をつく。アーラシュはコップを傾けて、大きめに削られている氷を口へと招き込んだ。冷たさが広がって、現実を知らしめてくる。音を立て氷を砕くと、カウンターに戻ってきた男は「行儀が悪いですよ」といたずらな笑みを浮かべて言った。この店を知ってから随分と経つ、だからかこうしてたまに男はそっと距離を縮めた言葉をアーラシュへ贈ってくれる。
「俺は、そうだな、多分に気に入るとそればっかりなんだ」ふ、と湧いてでた言葉が喉を鳴らした。
「たまには違うもので気分転換をしたらどうです」
「それを試したんだが、余計にほしくなって終っちまってなあ」
「一途なんですね」男は感心した態度から一転して、目を細めてからかうような姿勢へと形を変える。「ここ以外へ行かないでくださいね」
アーラシュが心の底からといった笑みと共に「当然じゃないか」と答えると、男は「嬉しいです」と呆れたようなしかし朗らかな笑みを浮べた。
4.
パラケルススはいつでもアーラシュの訪問を快く迎えいれてくれた。ある日に、課題が終らないと嘆いたところ「ここでされるのでしたら、私がみてあげますよ」と手伝ってくれたこともある。その時から、パラケルススはアーラシュにとって賢者のような存在になっていた。困っていたならばパラケルススを頼るべきだ、と。だから今、じわじわと地面からの熱気に蒸されながら玄関の前に立っているのだが、どうしても呼び鈴を押す勇気は湧いてこなかった。体はどこまでも熱いのに、頭はいやに冷え込んでいて、アーラシュからパラケルススを頼るという行動を根こそぎ奪ってしまおうとしていた。ぐっと手を握りしめる。数回、深く呼吸をしてからアーラシュは踵を返した。帰ろうと踏み出した足を止めたのは、パラケルススの声だ。出かけようとしていたのだろう、帽子を被った姿で汗だくのアーラシュに目を見張っている。「いつから」の言葉を理解するのに戸惑ってから「わからない」と答えると、呆れた顔でアーラシュの手を取り家へ招きいれる。日に照らされ続けてすっかり赤くなったアーラシュの肌にタオルを押し当てる。冷水に浸してから絞ったそれはひやりとして、荒い呼吸を落ち着かせていった。
「一体どうしたんですか」パラケルススが気をつかう声で問いかける。だがアーラシュの鼓膜はその言葉をうまく通さない。冷えたタオルでアーラシュの首や腕を拭ってくれるパラケルススは、その度に体に触れてきていた。その指が肌に触れる度に、ぼうぼうとした熱が体中を駆け巡っていく。喉の奥に詰め物をされたように呼吸がままならない、じりじりとした気持ち悪さが心臓から落ちてヘソの奥で形を変えている。
「お、おれ、」吐き出すように口を開いたアーラシュは、パラケルススの手を掴んだ。「体がおかしくて」続けた言葉が涙と共に落ちる。膨れ上がったものを見てパラケルススは困惑した顔を浮べている。アーラシュはそれがいやだった、だからきっとあの場所で呼び鈴を押すことができなかったのだろう。パラケルススがアーラシュの手を解こうとした。それに被せるように声を上げる。「きらいにならないで」震える体を押さえ付けるように、パラケルススの手を更に強く握った。手の平に伝わる低い体温すら、アーラシュの体に薪を投げ入れてくる。悪魔に取り憑かれてしまったのだろうか、混乱するアーラシュが嗚咽を漏らすとパラケルススが名前を呼んだ。顔を上げると、どうにもできないような顔をしたパラケルススがいて、膝の上に座るように施した。
粘ついた音が部屋に響いている。下着まで脱がされたとき、アーラシュは思わず声を上げたが、パラケルススが「大丈夫です」と言葉を繰り返してなんとか心を落ち着かせることができた。それから形を変えたものにパラケルススの指が触れるのを、信じられない気持ちで眺めていた。けれども、指が滑るように動き出したとき、アーラシュの頭は殴られたような衝撃を受けた。パラケルススに抱きかかえられて、あの痩躯を背中に感じながら、髪が肩をすべるのを感じながら、呼吸の音が耳を通り抜けるのを感じながら、ぬるぬると透明の汁を零す自身のものに細い指がそえられて蠢くのを、アーラシュは脳が焼べられた思考で捉えなければならなかった。ぐちゃぐちゃと音がたつ度に、心臓が逸り肺から熱気が喉へと送り込まれて、焼け付くような呼吸がもれる。ぼたりと口から溢れた唾液が、首筋から胸元を濡らしていく。己の熱を掻き乱すパラケルススの指を視界に捉えながら、アーラシュは自分の知り得る何もかもが体の中から勢いを持って引きずり出された感覚に支配される。
「うあ! あ、あ!」
腹で蠢いていた幾重の蛇が痙攣を施して、抜け出ようとアーラシュのものを通っていくようだった。張り詰めた体からゆっくりと力が抜けていくと、水の中のようにぼやけた視界で、どろどろとした白い液がパラケルススの手を汚しているのが見えた。
放り込まれた浴室でシャワーを浴びながら、アーラシュは漠然とした熱がまだ体の中にあるのを感じていた。すっかりいつも通りのものへと戻った場所を指でつつくも、パラケルススが触れたような強い刺激はなかった。用意されていたタオルで体を拭いてから服を着て、パラケルススの待つリビングへと戻ると、困った顔で座り込む姿が目に入る。アーラシュに傍に座るよう言ってから、小さな声を口の中で転がしているのは普段からすれば想像もつかないことだったが、それが先ほどの行為のせいだというのはよく分かっていた。アーラシュが謝ると、その必要はないと頭を撫でられる。その手は、蠢いた指を持つ方ではなかったが、それでもアーラシュには、あれほど気を狂わせるような動きが出来るだろう手が、こうして優しく頭を撫でてくれるのだという事実に、理解のできない茹だりを感じた。パラケルススは畏まった声で、アーラシュの身に起きたことと、自分の行ったことの説明をした。何らおかしなことではなかったのだと、そのことに一気に精神が緩和する。
「パラケルススもしてるの」
アーラシュの問いに、パラケルススは僅かに赤らんだ顔を背ける。その姿をじっと見つめていると、気付いたパラケルススが軽くアーラシュの頭を叩いた。
ベッドで丸まったアーラシュは、暗闇を見つめていた。薄いシーツに覆われたそこは世界から隔絶されたシェルターにいる気持ちになる。躊躇いながら、下着の中へと手を伸ばす。くったりとしたそれに触れながら、アーラシュはパラケルススの指を思い出していた。白く、細い指だ。アーラシュのものに巻き付いて緩やかに動くさまは、どうにも蛇でしかなかった。ゆっくりと不気味な熱が忍び寄ってくる音がする、ちりちりと火の爆ぜる音だ。あのとき、アーラシュには己の腹に蛇がいると思った、体中を蠢いて細い舌で内臓や骨をくすぐって制御できない熱を帯びさせていくものだ。パラケルススがそれらを追い出したと思っていたが「っ、う、」薄らと、あれはパラケルススがアーラシュに忍ばせたものなのではないかと何かが訴える。いま触れてくるものはパラケルススの指だ、にちゃにちゃと先走りで濡れたものが音を立て始めた。短い呼吸の中にけだものの声色が混ざり始める。見つめる暗闇に浮かぶのは、顔を赤く染めたパラケルススだった。「はっ、あ、あうう!」アーラシュは息を強く詰める。背を一段と丸めて、腹に力を込めた。かちかちと音を立てる歯は噛み付くものを探しているようにも見える。
5.
眼下で黒い髪が散らばっている。気を失ったままベッドに沈み込んでいる男を見下ろして、アーラシュは喉を鳴らした。月と街の灯りとが綯い交ぜになって窓から差し込んでいる、その光に照らされる肌は、やはり初めてみたときから変わらないものだ。アーラシュは顔を上げ壁をみて、それからもう一度男を見下ろした。薄く開いた唇に指を押し当てる。割り込ませた指の腹が、きれいに並んだ歯の表面を滑っていく。エナメル質の感触をひとしきり楽しんでから、少しばかり力を込めて口を開かせた。薄い舌をつまみ上げ、指で押しつぶす。うめき声がして、男の体が僅かに揺れた。舌を滑るように、指を喉奥に突き入れると、男は大きく体を緊張させてから嘔吐いてみせた。長い睫毛が震えて、包み込んだ湖を雫に変え零しながら、目蓋が持ち上がる。
6.
久しぶりに見上げた家には、人気が一切に存在しなかった。カーテンが外された窓から中の様子がうかがえるそれは、数年前の空き家であった頃の佇まいだった。呆然としているアーラシュに、隣りの家の住人が声をかけた。彼はアーラシュがこの家に通っていることをよく知っている。だからこそ、聞いていなかったのかという戸惑いも含めた声で言葉を続けた。
「ホーエンハイムさんね、先週に出て行ったよ」
転がるようにして玄関を開けて家に帰れば、母がおどろいた顔をしてアーラシュをみていた。パラケルススが引っ越したことを呻くように伝えると、あっけからんとして「知らなかったの」と口にする。パラケルススは、引っ越すことを母と父に伝えていた。アーラシュは信じられない心持ちで母の言葉を聞いていた。挨拶にきたとき渡された菓子の話も、そのときにパラケルススが口にした言葉も、全てがすべて、アーラシュの体で巻き上がった熱で燃やされていた。耐えきれずに自室へ飛び込んだアーラシュは、荒くなる息を抑えることが出来なかった。ベッドに顔を押し付けてアーラシュは呻いた。あんまりだ、と思う。なぜ自分にはそのことを言ってくれなかったのだろうか、アーラシュには分からなかった。ただ横たわるものはパラケルススが、アーラシュのことを捨てて立ち去ったことだけだった。自分の体のなかにこれほどの蛇を住まわせておいて、何もいうことなく姿を消してしまったのだ。それは、どうしようもなく「悲しかったぜ」
アーラシュに押さえ付けられたまま、パラケルススは混乱した表情を浮べていた。なにが、と唇が動いてから「アーラシュさん」とアーラシュへ呼びかける。
「俺は悲しかった、そいつを誤摩化すためにお前のことを憎いと思い込んださ」
パラケルススが逃げ出そうと身をよじるが、押さえ付ける体は多少として動きはしなかった。
「なにを、おっしゃっているんです、」
「おまえは俺のことを忘れているし」
「アーラシュさん」
「けど、まあ、いいんだ」
「お願いしますから、手を離して、話し合いましょう、」
「いいんだよ、なあ」
手を引かれ身を起こされたパラケルススは、アーラシュと向かい合うような姿勢をとった。掴まれたままの手が、アーラシュの体へと寄せられて、それを、彼は腹へ押し当てた。パラケルススの手の感触が服越しに伝わって、体で息を潜めていた蛇たちが一気に目を覚ましていった。アーラシュが喉を鳴らすと、パラケルススは怯えたような顔をみせた。己の手が何処へ導かれているのかも相まって、泣きそうな作りになっている。「よして、よしてください、おねがいし——ッ!」掴んだ手首に力を込めると、骨が軋む音を出した。じりじりとしていた熱は今やアーラシュの体の中をなめつくして炎を立ち上がらせている。茹だった脳は、いつかの夏に陥ったものと同じだろう。
「前みたいに、いいだろう」
アーラシュが自身へとパラケルススの手を押し付けさせたとき、ようやっとうつくしい相貌につよい動揺が浮かび上がった。信じられないものをみる目でアーラシュを眸へと招くパラケルススと額を合わせる。お互いの息が混じり合う距離に、アーラシュはより熱が沸き上がってくるのを感じた。触れさせているだけだったパラケルススの手を軽く揺すると、小さな悲鳴が唇から滑り落ちた。すっかり青ざめたパラケルススは「そんな」と言葉にもならないものたちを口で転がしている。その姿に懐かしさを感じてアーラシュは少しばかり嬉しく思うも、いつまでも待っていられるわけではなかった。
「してくれないんだったら勝手にやらせてもらうが」
アーラシュの声に細い肩が大げさなほど震えた。涙に覆われた目を歪めて、パラケルススは躊躇うようにジーンズに指を引っかける。ジッパーを降ろして、張り詰めたアーラシュのものをこわごわと取り出した。鼻を啜る音がする。アーラシュはパラケルススの肩と頭を押さえ付けるように抱きしめて、その白い指が己のものを擦り上げるのをじっとみていた。あの時と違い、両の指が硬くなったものへまとわりついている。パラケルススは嗚咽をもらしながら必死になって手を動かしていた。先走りで濡れた白い手がてらてらとしている。アーラシュは跳ね上がっていく熱と息とをパラケルススも共に感じてほしくなり、髪に隠された耳へ唇を押し当てて息をつく。湿った息が耳と周りの髪に生温く熱をつたえる。
「は——ッ、う”、ぅ”」
いっそう強くパラケルススをかき抱いてアーラシュは強く歯を食いしばった。腹が痙攣しするとねばついた精液が溢れて、パラケルススの手をすっかり汚していた。顔を涙と鼻水でぬらしたパラケルススは、再びかたさを帯び始めたものに「いやだ」と声を荒げた。もう満足だろう、離してくれ、そういって暴れるパラケルススをベッドへ引き倒してからアーラシュは薄いシャツへと手をかける。抵抗ともいえない抵抗をするパラケルススを無視して、アーラシュはその服を脱がしていった。アーラシュの手を止めるようにそえられた手の平がにちゃりと音を立てる。「やめろ」とパラケルススにしては珍しい言い方が、形のよい唇から吐き出された。停滞していたパラケルススの像に時間が与えられる、新たな一面を知れたことはどこまでも心を喜びで埋め尽くしていった。
暴れるパラケルススの足の間に体を割り込ませ、手を押さえ付ける。薄い胸板に舌を這わせて、ぺたりとした乳首を舌先でねぶる。歯であまく噛み上げてから口を窄めて吸い上げ、舌先を割れ目に捩るように潜り込ませる。「はっ、あ、あっやだ、いや、だ」もう一度ぢゅうと強く音を立てて吸い上げると、ぷるりと隠れていた乳頭が引きずり出され慎ましい姿を見せる。もう片方もと顔を寄せるとパラケルススは泣き声を上げて謝罪を口にしたが、強く歯を立てると嬌声だけに塗りつぶされる。ちゅうちゅうとパラケルススの乳首へと吸い付きながら、アーラシュは己の年齢をなんとなく思い出してから、おかしな状況だと笑った。首を仰け反らせたパラケルススが、上げていた声を詰まらせて体を硬直させた。どうしたのかと視線の先を手繰ったアーラシュは、それが壁へと注がれていることに気付いて、ああ、とバツが悪そうな顔を浮べた。
「きれいに撮ってやれなくて悪いな」
パラケルススの体から一気に力が抜ける。アーラシュは掴んでいた手首から手を離すと、そこに自身の手にそって痣が浮かび上がっているのをみとめる。ぞわぞわとした感覚がうなじを駆け上がっていった。己の汗が擦り付けられたパラケルススの体もそうだ。アーラシュはそっと投げ出された太腿へと指を伝わせる。するりと撫で上げて薄いしりむたをぐっと押し開く。慣らしてやるべきだとアーラシュは考えていた。だが同時に、自分を捨てたことを思い知らせるべきだとも、長く培われた悲しみを慰めてほしいとも。
「アーラシュくん」弱弱しい声が、小雨のように鼓膜を濡らした。
「ああ、うん、それだな」
炎が強く燃え上がる。パラケルススの苦痛と悲鳴を逃すことのないようにと、アーラシュは決して目を逸らさなかった。切れた場所から血が溢れて、腰を打ち付ける度に水の弾かれる音がする。狭くかたく閉ざされていた場所を割り入って、骨すら開ききるように突き立てる。ぐぶっとパラケルススの喉が鳴り酸味のする臭いが充満した。胃のもの全てを吐き出して、痙攣するパラケルススは手のかかる子供のようだ。「いつかと逆だなあ」ごりごりと肉壁を擦り上げながら腰を動かす度に、パラケルススは呻き、身を固まらせて、吐いていた。膨らんだ腹を撫でていると、揺さぶられるままだった腕がシーツをかき分けようと動いていた。パラケルススの脆弱な死にかけの腕が窓へ伸ばされるように動くのに、アーラシュはいっそう強く己を突き立てて止めさせた。ごぼっと口から胃液が吐きだされる。
「部屋に足りないものはあるか」
虚ろになったパラケルススの目を覗き込むように身を屈める。光を遮って作られたアーラシュの影の下で、パラケルススはもはや力なく横たわるだけだった。
それに気がつくと、パラケルススの力の抜けた腕を持ち上げて、アーラシュはくたりとした手に頭を押し付けた。