戦火の臭いが真っ先に脳へ刻みこまれた。案内された部屋の中で長椅子に横たわり、表紙の折れ曲がった本を読んでいた男は、こちらをほんの僅か強く見つめてから何を言うでもなく視線を本へと戻す。傍らで紹介をする英霊にすら何の反応も見せない男と、あとは仲良くと取り残された私は、少々困惑してその場に立ち尽くしていた。紙の擦れる音が不定期に鳴る。男が横たわる長椅子にかかった敷物をみて、思わず口を滑らせると、そこでやっと高めの声が返ってきた。怪訝さがそのままに息へ乗せられている。より濃くなった戦火の臭いが、私を態度をどうにも遅らせてくる。「キャメロットと」「ああ?」「綴りが違う」男の目はかけられる敷物へと向けられ、呆れたような表情を浮かべた。「これで正しいものじゃ」それから投げやりにまた本へと意識を向けようとする。私はそれを止めねばならなかった。「正しい?」「これはこういうものといっておる」「Kamelotが?」やや大きく音を立てて本が閉じられる。男は身を起き上がらせると、立ち上がり小さな机の前へと移動する。ケースを開けCDを取り出し、プレイヤーへとかける。再生が押されると同時に響いた轟音を指差して、これ、と男は言った。「それよりキサマ、一日中そこで立ち尽くすつもりか」
ステッカーの貼られたガラス張りの机にはいくつか剥がし損ねたあとも残っている。男はそこが定位置だとでもいうように長椅子へと戻った。袋を置いて、一人掛けの椅子へと腰掛ける。壁には所狭しとポスターや写真が貼られていた。私は男の名を知っていたがどうにも呼びかねていた、男、織田信長は、私の口から自身の名を呼ばせまいとしているように感じていたからだが、しかし、とんだ言いがかりだろう。「……全て私物なのか」まさか、と男は言った。「前の持ち主のものよ」縮まった距離でいっそうに取り巻く戦火の勢いが増す。息をすることが煩わしく、手の平は剣の柄を求めていた。目を逸らし続けている私の成り立ちが、男の纏う軍場に囃し立てられて着飾った平穏を突き破らんとする。「居心地が悪い」無意識だった。私の声は静かに響き渡る。男は目を細めた。まじまじと私の顔を見つめてから、首を傾げて口を歪める。「そうじゃの」長い髪が揺れると、火花が散る音が脳裏を掠めた。「わしも浮かれた道化と居るのは居心地がわるぅて仕方ない」長椅子の背に男の体は押し付けられていた。反射といってよかった。道化の言葉に、飛びかかったのだ。襟ぐりを掴んだまま強く、より強く体を押し付ける。男の赤い目の中に私の姿が見えた。「道化だと、ふざけるな」血の中に私がいる。「貴様に私の姿をどうこう言う筋合いはない」「悪あがきが好きなようじゃ」男の体から火の手が伸びゆく。私が逃れんとする争いの音が、男の体を満たしているのだ。
「私は誇りを持ってサンタクロースをしている。いかなる輩にもそれを貶めることを許してはならないのだ。分かるか、トナカイ。サンタが貶められるとは即ち、子どもたちの夢も踏みにじられる事なのだと」
「だからってカルデアの中で宝具を使おうとするのはやめてね」
「それは……そうだな、悪かった。反省しよう」
「こやついきなり殴り掛かってきたのじゃぞ。わしは正当防衛じゃ」
「あー! もうやめて!」
部屋を別にすべきだと男は言ったが、マスターは困ったように笑ってその部屋が開いていないのだと続けた。軍靴が歩む音は低く耳をうっている。「先ほどは悪かった」男は歩みを止めることなく「なにが」と聞き返す。「私の失言が元のこと。おまえが不快に思うのも当然だ」「不快ね」男が立ち止まる。気付けば部屋の前まできていた。音もなく扉が開くと、荒らされた室内が姿を現す。それからは無言のまま二人で後片付けを続けた。前の持ち主が残していたというものの大半が、ゴミと成り果てていた。
織田信長との関係は、説明が出来ないものとなった。私は彼と話していると、ひどく暴力的な気持ちを煽られて、結局、耐えきれずに拳を振り上げる事になる。彼もまた、私と力の応酬を躊躇いなく繰り返している。だが、険悪というわけでもなかった。争いの尾は引く事なく、私も彼も一段落つけば何事もなかったように会話をする。だが戦火は未だ、あの体で燃え盛っていた。その気配は、やはり私を無意識に揺さぶるのだ。
「どうにも気持ちが悪い」
「お? なんじゃ喧嘩売っとるのか? 倍値で買うぞ?」
「原因に言及しない事がだ」
緩く弧を描いた口のまま、彼は私を見ていた。
「何故そこまで戦の臭いを纏う」
「わしの全てだからじゃ」
臭い立つ火の勢いが増してゆき、部屋一面を舐め尽くしていった。人が焦げ、燃える臭いだ。死体に覆われた丘が、足元に現れる。今の私がそこに立つ事は、あってはならないことだというのに。この姿は雪原と夜空とを駈けねばならない。輝く星々の海を渡り、穏やかな眠りにつく子どもの夢を形にするものでなければならない。間違っても、死の折り重なる争いの直中で立っていてはいけない。「それとな、わしはキサマがきらいなんじゃよ」嫌がらせじゃの、と織田信長はわらった。もはや幾度目かも分からぬ暴力が、私の体を突き動かした。
破れたシャツは、爛れ固まった皮膚を隠すことはない。切れた瞼と、折れた鼻から垂れた血が首を締め上げられる男の胸元へと落ちた。燃え上がっていた手と足は抵抗することなく、地に縫い付けられ動かない。散らばった黒髪が、泥のようでもあった。呼吸が途切れようとしている。真っ赤に膨れ上がった顔のまま、私の姿を瞳へと捉えると、囂々と響き渡っていた炎はたちまちに消え去った。気を失った男を見下ろしながら、固まった指を引きはがす。熱傷が刻まれた体を暫し眺めてから、その横へ倒れ込む。長い髪を下敷きにしたまま、天井を見上げて深く息をつく。数分を経て、体を起き上がらせた。早々に地獄へと引き込まれたせいか、普段よりは荒れていない。何がどうなっても争ってしまうのなら、片付けをしなくてもよいのではないだろうか。億劫さを抱えながら、織田信長の頬を打つ。一人で終らせる気はないのだ。
火の手も弱まる時がある。夜、眠りの時こそがそれだった。落ち着くといって床に寝具を敷いて眠る男を見る。信じ難いことだ。床へ直にとは。ともあれ眠っている時だけは、彼の体から息苦しい争いの火は漂わなかった。表情を失った面立ちを眺める。薄い唇が僅かに開くと、親しみが音となって小さくこぼれた。私は衝撃に襲われる。いいようのない感情が、肺の中を満たしていった。
「アルトリア」
織田信長は、私の名を呼んだ。しかし、それが私の名でないことは、重々理解もしていた。私を指すのと同じ音を、彼はこれほど柔らかく放つことができるのか。
彼はマスターと共に往く戦いの中で、あの炎に包まれる地獄を作り出すことはなかった。野営をするための安全の確保とやらを共にしながら、私は何故かと問いかけた。呆れた顔をしてから、思い返すよう眉を顰めて、ああ、と声を出す。「ゆうておらんかったな」アルケブス銃が牙を鳴らす。散らばった骨の欠片を踏みつけて、森を見渡しながら言葉が続いた。「他のものは、ほら、あれじゃろ、神性を纏っておる」瞳が弧をえがき歪む。「みな消え失せるぞ」それが起こったならば愉快だと言わんばかりに弾んだ声だ。なるほど、と返す。おそらくマスターと決めたことであろう。振りかぶったプレゼント入りの袋が、霧のよう漂う姿にのめり込み四散させる。魔除けの道具でも入っていたのだろう。効果は覿面だ。「よいのか、それを殺す道具にして」私が固執するものを指摘する声は、いやというほど透き通っていた。この姿は、戦いの為にあってはならなかった。雪原と夜空を駈け、穏やかなものを叶えねばならなかった。白い袋についた血と肉片を見つめる。舌を打つ。振り向いて剣を抜いたその姿を見る。意趣晴らしだった。
「信長」私の呼びかけに、彼は何の反応も示さず、静かな拒絶を表した。「サンタクロースは夢を届けると同時に、子どもたちの笑顔を守るため暗躍する存在でもある。これは戦闘用の袋だ、なんの問題もない」失せていた表情に、怪訝さが加わった。「なんじゃそれ」つい先ほどの私の呼びかけなど、まるでなかったとでも言いた気に呆れた笑みが浮かび上がる。あのときの言いがかりは正しかった。しかし、だが、不服には思わない。いまのところ、織田信長の体が炎に焼かれる姿と、刻まれた熱傷、それを知るのは私だけである。