オバロ-1

 地獄と臨む。
 煌々と燃え上がる死、その揺らめきの熱はあまりに高く、いのちあらゆるを黒黒と炭へ変貌させていた。いのちが潰れる熱と、支配者のため息。退屈が暗闇としてあたりを覆いつくしていた。泥濘。体を包む泥が流れ落ちていくじれったい感覚は、やがて微睡む意識を浚い覚醒への道を指し示す。鋭い光が針になり額を貫く。喉を鳴らし、神経が満たされる順序を追う。目を。目を開く。夜風が体を通り過ぎた。細くしなる草が音を立て、まさに緑の海であった。大地の浅瀬に立ち尽くした男は辺りを伺う。何もなく。それを認めると空を仰いだ。星々の輝きが降り注ぐ。秩序があった。星辰すべてが正しく。潰れた楕円の穴がある巨大な月は、祝福を光に降り下ろしていた。産み落とされたのだ。男は己の過去がないと気づき、だが、空と地をみやってから、さしたるものでもなく思う。喉が鳴った。覚えたての飢餓はあまりに強く、広がる感情すべてへ根を伸ばしている。
 魔皇ヤルダバオトが世界を平定し数年が経つ。人と魔皇とが争った際の爪痕が大地から癒されることはまだない。だが、平穏は確かに姿を見せ始めていた。少なくとも魔皇の下において、あまねくすべては平等だ。統合された世界において、変わらず以前の生活が続いてはいるともいえた。少しばかり間引く行為があるだけで、人間の社会は特に虐げられることもなく存在している。間引く、ということが人々に強い恐怖を与えてはいるのだが。
「おや、これはまた随分と、みすぼらしい羊が来たものですね」
 薄汚れ横たわり小さく息をする羊を眺め、あきれたような声が響いた。平時と変わらぬ声ではあったが、何処からです、と問いかけた音には裁きの前触れが入り混じっている。「ヤルダバオト様。それが、人間たちから選定されたものではないのです」一柱の悪魔がおずおずと声を上げる。仮面に隠された感情のほどを量りながら。今回の間引き分の羊は、要求する水準を満たしたものがきっちりと揃えられていたと。「これは牧場の近くで彷徨っていたのを、警備のオークが連れてきたものになります」身を折り曲げた羊が咳をする。弱弱しく震えてから、凝り固まった体を不器用に動かして身を持ち上げる。二柱の目が人間の動向を追っている。ざんばらな黒い髪の間から、鈍い光を伴った目がのぞく。ヤルダバオトはかつての地獄をみた。だがそれがいつのことであったかは明確にわからない。ヤルダバオトの視線から逃れようとしたのか、黒黒とした目は所在なく揺れた後、地へ視座をまとめ動かなくなった。唇がわずかに動いたが、何を象ろうとしたのかまでは判断がつかなかった。「いかがいたしましょう」悪魔の声が縫い留められた視線を断つように響く。ええ、と返し、そうですね、と続け、魔皇は今一度その目を羊へと向けた。身を擡げ始めた魔女の形は何を司るのであろうか、ヤルダバオトの裡にある言いようのない形は。
 私の羊にしましょう。音は気まぐれに弾んだであろうか。その魔女を何者にも悟られてはならぬということだけは、姿をつかめぬヤルダバオトにもはっきりとわかっている。
 ヤルダバオトはいまいちど羊と向かい合い、痩躯を頭頂からつま先まで眺め直す。布一つまとわぬ姿になった羊に落ち着きはない。「私を見なさい」肩を大きく震わせて、羊は不意打ちにあった面立ちのままヤルダバオトを見た。冬の夜だ。澱み燃え上がる豊麗が二つの眼に押し込められて鈍く輝いている。感情の崩落があった。裡で荒れ狂うあらゆるが、ヤルダバオトを壊そうとする形を取り始めていた。認め難さが傾れていく。薄汚れ、やせ細った羊のなにが、と。しかし理性の囚徒ですらなくなった手を、だれが止められるというのか。懐旧があった。求むる栄華と、滅びの楽土と、再誕の時が。ヤルダバオトの爪は羊の腕に食い込み肉を抉る。あふれる血が己の皮膚を滑ることにすら、喜びがあった。なぜ、とヤルダバオトは口にする。なぜ、なにが。これはなんだ。取り繕うこともなく腕に捕らえて、床へと羊を押し込める。「一体どういうことなのか、」喜びは、常に夜とあった。ヤルダバオトの飢えを真実満たすものは月それしかなく、他のいかような行為であろうとも、精神の壺を満たすにあたらなかった。責苦に苛まれる声がいかに凄惨な色を帯びようとも、ヤルダバオトの唇を湿らせるばかりで、飲み込むだけのものはなかったのだ。打ち壊さねば。これまでの道が焼き払われようとしている。焦燥からその手はかぶり続ける仮面を抑え込んだ。これでは足りぬのだという焦りに、あらゆる仮面をかぶってしまわねば。羊の腕が持ち上がった。骨と皮ばかりの頼りない指先が、仮面を抑え続けるヤルダバオトの甲を撫でる。なるほど、地獄はいかにも下にある。白痴の瞬間が訪れた。仮面の裡から首筋へと、流線型がおびただしく身体中へ這い回り始め、従うようにヤルダバオトは、思考をかなぐり捨てざるを得なかった。
 ヤルダバオトの飢えを満たす唯一、月というものは、あまり姿を見せない存在だ。それが現れるのは夜であり、星々の並びは大して気にかけないせいか規則性がない。ただ煌々と輝く月が天に座した時、ヤルダバオトは何にも置いてすぐさまに夜天を駆けて、虚の穴を蠢かせるそれへと傅いた。そして己の行いを告げて、深く息を吐き、そのまま月が消えるまで頭を垂れていた。感覚のこととなるが、ヤルダバオトは君臨し世界を睥睨する月のことを己が唯一仕える神であろうと捉えていた。神に目見えることのなんと幸福であることか。
 だからこそ、羊がその飢えを満たすのは、己の貴き忠誠に泥を塗りつけられた気分であった。
 とうに四肢を失った羊は、一際大きく声をあげると背筋をしならせて、まばゆい涙を飽きることなくこぼしながら赦しを求める言葉を並べた。稚拙な音の並びの原因は欠けた舌にある。ヤルダバオトの爪が再び口の中へ潜り込むと、残った柔らかな舌をまた細かく千切るかのように突き立てられる。口から溢れる血が羊の喉と胸とを汚して、揺さぶられる動きにそって僅かな量が辺りに飛び散る。身を捩らせることしかできない羊を抱きながら、腹の中を思うまま掻き混ぜると小さく痙攣が起こった。血と精液とが床で乱雑に混ざり広がる様を一瞥してから、己の皮膚に張り付き巡る黯い渇望が羊の肌へと根をはらんと伸びゆくのを見やる。狂気の形だ。激情と共に現れるその形は、ヤルダバオトにとって何にでもなる便利な細工であったが、今こうして羊を繋がんと縄のよう皮膚と皮膚とを繋ぐそれらには錯乱の様相が感じ取れた。そうでなければかようなことはしないであろうな、と思いながら、ヤルダバオトは何度目かになる射精を行った。羊の身が大きくこわばって、接合部からは崩れ爛れた肉のかけらが精液と共に溢れる。焼けるような臭いが羊の体から立ち上った。濁った目は限界を訴えているようだった。ヤルダバオトは内臓の溶けきった羊の腹を撫でる。泥を掻き混ぜる音がした。だが羊が死ぬことはなかった。傍で詠唱を続ける悪魔が、すぐさまに羊の体内を修復していく。羊は頭を振った。舌の繊維が形を整えて、切り裂かれた喉も元の形を取り戻していた。どうか、と途切れに乞われるのは幾度目であろうか。
 死者の手ほども蒼い手が僅かに動いた。正気を縫い直された羊が目覚め、身じろいだのだ。何度かの夜を越えて、ヤルダバオトは焦燥とした狂気を幾分かは飼い慣らせるまでになった。純白のシーツのしわが形を変えて、羊が身を起こす。疲れ果てたまなこがどこを見るでなく彷徨ってから、傍らのヤルダバオトの輪郭を滑る。それから羊は両手をつき、頭を下げてから動きを止めた。さらけ出された頸に爪を立てる。破れた皮膚から血が流れて、首を囲うように落ちていった。ああ、首輪だな、とヤルダバオトは何処となく考える。私の羊、と柔らかな声が喉を鳴らす。確かめる響きを持つ音を再度繰り返す。私の羊。背骨の浮き上がる薄い皮膚を撫で、歌うように言葉を続けた。今日は何をしましょうか。
 皮を引き剥がされる痛みには慣れてしまったのだろう、羊は声を耐えて忍ぶばかりである。肉の裂けた背からは、血に塗れた骨がのぞいている。純潔の色をちらと目にし、ヤルダバオトはまた暴れ狂おうとする激情が、脳裏から忍び寄るのを目を閉じて抑えつける。波が大きく思考をわななかせたのを、遮った視界で途切れさせ、二度ばかし息を深く吐く。再び目を開き、眼下でうずくまる羊を見た。肩を抱いて震えている。ヤルダバオトは今一度、手ずから剥いてみせた皮を持ち上げ眺める。しなやかな折り目つかぬ羊の皮は、みずみずしいバターの色をしていた。羊の荒い息を聴きながら、仮面の淵へ指をかける。頬ずりをしてみせた皮のなんと滑らかなことであろう。この皮は丁寧に処理をして、手袋をあつらえてみようかと「でみうるごす、」思い、たえだえに呟かれた言葉に恐怖を覚えわななく。外した仮面が手から滑り落ちると、乾いた音を立てて床を転がってゆく。青ざめた顔のまま水分を失った唇が再び形を変え動こうとするのを、靴先をぶつけて止めさせてから大きく肩を揺らす。それから手にした皮と、濡れた背とを交互に見やってから、ヤルダバオトは膝をついた。歯が欠け、下顎の潰れた口から血がどうどうと流れている。今まで満たしてきたすべてが流れ落ちる様でもあった、精神の支柱を失った感覚が背筋を駆け抜ける。は、と息がもれた。震える手を伸ばして、横たわる体を抱き起こした。その身体中に刻まれた傷口を絶え間なく潤す血が、ヤルダバオトの服を汚し、重みを増させていた。頼りなく立ち上がった姿は普段のものをはかけ離れている。だが何者もそれについて言及することはなかった。ヤルダバオトは地を蹴る。背がいびつに膨らんで、大翼が広がった。禍々しい鉤爪と、ぬるついた鱗が夜天光を受けておぞましく輝いている。逃げるように羽ばたいて、空へと登りあげる。だが星は遠く、ヤルダバオトはついに耐えきれずに叫んだ。尾を引いて後ろへと通り過ぎる星たちが、やがて動きを止める頃、眼前に広がるものは秩序の様であった。あらゆるが正しく配置された夜天を見上げて、ヤルダバオトは顔を歪めた。虚の穴を孕む太陰、月が爛々と輝いていた。それはいまヤルダバオトと、腕の中の死のみを眺めていた。吐息ばかりが溢れ出て声がまともに作れないヤルダバオトを眺めている。その輝きには、希いの筋すら赦されていないのではないかと。血を吐く面立ちで、ヤルダバオトはようやっと声を作り、泣くように御名へと祈る。
「ウルベルト様」
 大厄が降り注ぎ、また、一つの赤い光がヤルダバオトを貫いた。
 傅いたままのデミウルゴスは、逸る鼓動が止められないことに強い苛立ちを覚えている。ならばせめて止まってはくれまいかと。
「面を上げろ」
 デミウルゴスはすぐさまに顔をあげた。輝く玉座は、至高の御方のみが座する、まさに天の頂である。いまそこに静かに腰掛けるものは、ただ一人であった。半壊した献身の薄く開いた口から、唾液がひとすじ溢れ顎をつたうと、傍から伸びた厳しい指の背が掬い上げる。瀆聖を統べる偉大なる悪魔は、しかし慈しむ声で玉座の者へと言葉を続けた。デミウルゴスは至高の存在が戯れる様を眺め、魔女の姿が詳らかにされたことを理解した。狂気は侵したすべてを知っている。ヤルダバオトは死んだのだ。だのだ。