ブラボ-1

 血と霧の夜にいる。
 墓場はガスコインの持ち場だった。外来の神父へ祈り縋るものは本来ならばいなかった、それは強固な信仰からではなく土地に根ざした作法からの拒絶で、だからこそ大橋が封鎖された時、彼らは医療教会に示され続けたあらゆるをたやすく捨てたのだ。獣の病が蔓延する地で、彼らは死体すらも恐れ魂が人の姿のまま召されるようにと、医療教会の次に手を伸ばしたのは広間の側に住むガスコインの腕だ。深く掘り下げられた穴に鎖を巻かれた棺が下される中、神父の声は滲むように耳を濡らした。——絶えざる光をかれの上に照らし給え、かれの安らかに憩わんことを——重たくかかる雲は日の光を僅かにも溢すことなく、薄霧に包まれる墓地をより陰鬱は雰囲気へ仕立てている。そぞろに死者を見送る者たちを眺めながら、ヘンリックは忌々しげに目を細めた。凭れかかった木の幹は湿って冷たく、葉先から離れた雫が黄味がかった帽子へ落ちて小さく音を立てる。どれだけがガスコインの祈りを理解する、何人も。医療教会だろうと、その教会と袂を別っていようと、もとより異邦の聖職者なのであろうとも、彼らはなんだっていい。何人も理解をしてるはずがない。それはヘンリックも例外ではなく、だからこそ聖職者としてのガスコインを都合よく利用だけはすまいと決めていた。死んだ時は捨て置けと、それがローランのやり方で、ガスコインへの誠意だ。
 ——Umbasa
 彼はガスコインへ縋る人々の腕に虫を見ていた。
 駆け寄る少女を抱き上げると、ガスコインは少々困ったように眉を下げた。少女は無邪気にヘンリックへと抱きついた後、帽子を取り己の小さな頭へと被せている。
「すまないヘンリック」
 さあほらとガスコインは窘める声色で少女をヘンリックの腕から己の腕へと抱きかかえると、顔半分も隠している帽子を取り上げる。現れた目の色味はヤーナムでは見ないものだ。長らく隠されているガスコインの目の色だ。
「お父さんまたお出かけ?」
「ああ、良い子でお留守番しているんだよ」
 娘の額へキスを送る表情は朗らかだ。ヴィオラが腰元へと油の差し終わったランタンを取り付けている。ガスコインは妻と娘を今一度つよく抱きしめると、ヘンリックへと向き直り頷いた。「香を絶やさないように」と最後に伝えると重たい扉を閉める。狩りの始まりに必ず見る光景は幸福の温度であり、ヘンリックが手放して久しいもので、この夜、ガスコインが手放したものだった。
 月は近く。凶暴化した犬と、獣の病が進行したものとを叩き伏せ、広間に積み上げられた薪の上に放り投げる。力を失った四肢がねじ曲がって倒れ、脳漿は地面に引き続いていた。油と松明を投げ込むと、炎は勢いをつけて死骸を嘗め尽くす。熱気が膨れ上がり、マスク越しに皮膚を炙ろうとしていた。残弾数を数えるガスコインにヘンリックは声をかけた。舗装の崩れた石畳を進み高台に辿り着くと門の側に暖かな家が見える。ヘンリックは獣除けの葉が掛けられたドアをノックする、戻って来た二人を迎え入れようとしたヴィオラはしかし怪訝な顔をして先へと目をやった。そうして家から数歩離れた場所で立ちすくむガスコインに気づいた時、初めに焦りが湧いた、そして同情と怒り、諦めが続く。彼は家へ近くことができなくなっていた。獣避けの香が立ち込める町で途方に暮れている黒い影は、迷い犬さながらでだが誰も家にあげられはしない、ヘンリックの肩越しにヴィオラは戸惑い一歩外へと出た。よろめいたガスコインへと駆け寄り、呆然とする巨躯を抱きしめ涙を流していた。戸惑いの中で動いた腕がヴィオラの背へと回り細い体を掻き抱いて、哀れな姿からヘンリックは目を背けて様子を伺おうとしていた幼子へベッドへ戻るよう促した。
「ヘンリック、私は妻と子を殺してしまうだろうか」
 首にかけたタリスマンを両手に握り額へ押し付けて項垂れるガスコインにかける言葉はどこを探しても浮き上がりはしない。久方ぶりに解かれた包帯からのぞいた目には溶けきった瞳孔が浮かび、目元には細やかな血管が浮き出ていた。ヘンリックは低く唸ると震える肩に手を置いた、厚い肉に覆われた肩は熱を発して湿っている。ヴィオラの不安に塗れた顔を思い出す、ヘンリックの名を呼びガスコインを助けてくれと平伏した姿だ。頷くことはできなかった、ヴィオラの求める救いはガスコインが元に戻ることだ。
「俺は狩人だ」
 ヘンリックの言葉にガスコインは顔を上げた。かち合った視線に、体の力を抜いて緩く笑う。疲れた笑みだったが、安堵の色もあった。やがて雨粒が叩く音が耳をかすめたが、ヘンリックはローランの乾いた土地を感じていた。医療は何の役にも立ちはしない、最後のさいごまで、殺し続けなくてはならない。
「なあ同士、そいつが真実だとしたら俺に止める権利はないさ」
 禁域の森の口、古びた昇降機のためが小屋でヘンリックはヴァルトールと向かい合っていた。ふんだんに湿気を含んだ木々に囲まれ蒸した暑さが足元から這い上がってくる。禁域の森その篭った瘴気はあの墓地と似通っている。
「結構じゃあないか、だからこそ俺たちの誓いは存在せねばならない」
 くぐもった笑いは兜の中で反射しているのだろう。肩を揺らして笑うヴァルトールはやがて両手を叩いて大きく息を吐いた。ヘンリックは目の前で爆ぜる火に目を移す、揺らめく炎が巻き上がっては消え、根元から再び吹き上がる。それはヤーナムの街で夜を照らす獣の死骸を包む動きのようだ。どこにいても。ふ、とヘンリックは辺りを見回した。気配を探る動きにヴァルトールは思い至ったと声を漏らす。
「あいつはビルゲンワースにいる」声がひそまり。「聖歌隊が何やら探っているらしい」
 だが同士、お前はそういうのとは無縁だな。ヴァルトールが確かめるように口にした言葉をヘンリックは頷いて肯定した。奸計の類はどうでもいいことだ、ヘンリックはあくまで狩人だった。「喜んで手を貸したいところだが、俺にも大仕事が残っていてな」ヴァルトールの気遣いに首を振る、もとより一人で行うつもりだと。
 家は静まり返り、ヴィオラも、その娘の姿もどこにも存在していない。明かりだけが灯って、キッチンに置かれた鍋では冷めたスープに虫が集っていた。一体いつからだ。近くでカラスが大きく騒ぎ出す。ヘンリックは家を出ると足早に墓地までの昇降口を目指した。彷徨く大男に目もくれずに、獣付きの男たちを捩じ伏せて墓地へと。
 果たしてガスコインは獣と化し臓腑を散らして絶命していた。
 墓石の数々は砕け、街頭もへし折れている。木の幹には深い爪でえぐりつけられた後が残り、草と地面には油と火の臭いが残っている。薬莢が血の中で鈍く沈むのに、ヘンリックは狩人の来訪を知った。間に合わなかったのだ、ガスコインは獣と成り、狩人によって狩られたのだ。巨躯をしなだらせた獣へと近づくと、マスクの奥で呼吸が僅かに止まる。ヘンリックの目が見開いた。銃創と切り伏せられた跡、腹部からまろび出た臓腑に粘ついたものが付着していた。ランタンに火を灯して獣へと翳せば、暗闇の中塗りつぶされていた様相が暴かれる。死体は精液に塗れていた。引きずり出された内臓にも、引き裂かれた下穿きから見える太腿にも、ヘンリックは息を止める。ランタンの燃える音だけが鳴り、動物の声は一切が無くなっていた。獣として狩られていたのならば、それはヘンリックにとって悔やめど憎むものではない。だがどうだ、ガスコインは獣として狩られたわけではなかった。掲げたランタンが落ち、飛び散った油に沿って火が燃え移った、地面に残されていた油までに届き一気に墓地を明るくする。首元に見慣れたタリスマンはなく、引きちぎられた紐が残されていた。よろめいてガスコインの側へと膝をつくと、口を覆う布を引き下げる。震える手が臓腑を掴む。ヘンリックは口を開いた、その歯は整って並び平たく、獣とかけ離れていたが、その人の口に肉を押し込む。獣を喰らった。ヘンリックは我を忘れて獣に喰いついた、煌煌と燃え上がる火に囲まれて、墓地に烟る霧が黒煙と化す中で。青臭さに塗れたガスコインの臓腑は苦く、血は刺すように喉を埋め尽くす。肋骨を掴み鉈を振り上げて叩き折ると肺と心臓を引きずり出す、血管と筋繊維のちぎれる音。膨らむ腹を気にせずにヘンリックは食い続け、やがて臓腑の尽き掛けた獣の体に水が溜まっていることに気付くと、緩慢に空を見上げた。雨が降り、上がっていた火の手はすっかり消え去っている。ガスコインの血が流されていた。
「魂が主の御手とやらに委ねられていることを、おお、アンバサ」
 雷が落ちる。
 ヘンリックがヤーナムの市民へ刃を向けたとき、止めるものは何者もいなかった。彼は一度に終わらせることはせず、静かにその数を減らさせようと夜毎に人々を殺している。人々、かつての。そして墓地へと足を向け、共鳴音を響かせる灯の前に立ち尽くした。それがここ数日のヘンリックの生活だった。灯の前に虫を落とす。やはりヤーナムの民には虫が潜んでいた、足を振り上げ、ゆっくりと地面へと押し付ける。身悶える触覚と多足、節が蠢くも抜け出すことは叶わない。硬い外殻の隙間から汁が飛び身が弾ける。一匹、一匹、とヘンリックが虫を潰している中で大きな殺意が空気を震わせた。
「ヘンリック!」
 顔を上げた先、オドン教会へ続く扉の前で奇妙な嘴の仮面が月光に照らされる。かざされた手の中で物憂いな光を放つ刃は星の音を響かせて二つへと分かたれた。鴉羽が広がり、狩人がヘンリックへと飛びかかってくる。狩人狩り。外套に下げたナイフを抜いて投げつけるも、細やかな音と共に削り落とされた。
「アンタを殺す!」
 横振りした鉈に合わせ刃をぶつけると狩人は跳躍する。恐ろしく硬い素材で出来ている、あの細やかな星の音、隕鉄だと噂されていたのは真実だろう。狩人狩りが代々受け継ぐ古来の仕掛け武器、慈悲の刃だ。着地と同時に狩人は地を蹴った、短銃の引き金を引くも弾丸は低くした身の上を通り過ぎていった。交差した腕がヘンリックの懐に飛ぶこむ寸前、飛び下がりもう一度引き金を引く。十字に振り下げたばかりの腕は間に合わず、鴉羽の付け根に弾が打ち込まれた。
「アイリーン、俺には勝てん」
「獣の兆候のない人々を殺すアンタをどうして見過ごせる」
 片腕が満足に動かないまま、アイリーンは刃を一本の短刀へと組み合わせるとヘンリックへ切っ先を向けた。獣の兆候、その言葉に深く息を吐く。
「連盟は淀みを戴く、奴らには虫がいた」
 アイリーンが虫と静かに繰り返し、体を震わせた。怒気が再び燻り上がり、アイリーンの声には忌々しさが宿り始めていた。「ガスコインが死んだから、アンタは今更連盟らしく振る舞い始めたってわけかい」大きく踏み出された一歩と共に鋭い切っ先が空気を切り裂き迫ってくる。
「あいつは関係ない」ヘンリックは苛立たしげに答えた。
「マダラスにもガスコインの虫は見えた! アンタが見えなかったわけがない!」
 虫。ヘンリックの動きが僅かに鈍った瞬間、横から斧が振り下ろされる。身を反らすも脇腹に刃先がのめり込む。アイリーンが狩人へ何かを口にしていたが、ヘンリックの眼に映るのは男の首から下げられたタリスマンだった。あれはヤーナムで見るものではない、医療教会もメンシス学派も、今や閉ざされたビルゲンワースも、そのどこからも由来しない形をしている。あのタリスマンは。私の故郷はここよりも北にある、名をボーレタリア。ガスコインの声と祈りとがヘンリックの脳裏を掠めて、残されたのは無残な死体の光景だった。男と交わった視線の先、淀みを見る。ヘンリックは歯を噛み締めた、形容しがたい激情が身の内を燃やし尽くそうとしていた。
 そして、ヘンリックの目は再び開き、そこは薄暗く湿り乾いた血と腐った臓腑、獣臭さがわずかに残る墓地ではなくなっていた。殺された、ヘンリックはアイリーンと狩人によって刻まれた記憶を掘り起こす。あの男の手でガスコインも屠られたのだ。
「君のような男はすぐにでも悪夢に囚われるものだと思っていたが」車椅子の音がし、人形を傍らに立たせたゲールマンは顔色を変えることなく薄い唇を動かしている。「狂えぬのは不憫なものだ、君の夜も、きっと長い」
 人形が車椅子を押して、中庭へとゲールマンを連れて行く。柔らかな風に揺れた花が音を立てて、月の匂いが立ち込めていた。狩人の夢、ヘンリックはいまだ醒める意志を覚えず、夢を見続けねばならぬのだと拳を握った。脳裏から滲み鼻をついた臓腑の悪臭が、花々の香りを掻き消していった。並べられた墓へと手を翳し目を閉じる、死者の灯が鳴らす共鳴音が鼓膜を揺さぶり体が宙へと浮いた。暗闇に沈み、やがてヤーナムの土地が眼前へと広がる。医療は何の役にも立たず、祈りが獣を作り上げる街。ローランは砂漠に沈んで終わりを迎えた、この忌々しい土地もそうなればいい、ヘンリックの渇いた内側からこぼれ出る砂にまみれていけばいい。共鳴の鐘が響くその先、あの男を殺すその最後まで殺し続けてさえいれば、この身の砂は大地を呑み込むはずだろう。そうなるまで、喜んで血と霧の夜に居続ける。