sd-34(Yesterday Once More)

 堤防釣りの場所としてそれなりで時たま通りすぎると幾人かの釣り人が見えていたが、こと仙道が釣りをする日には狙っているかのように人という人が見当たらなくなる。いまも係船柱に腰掛ける仙道と、その横で座る魚住以外に人気はない。揺れる釣糸と穏やかな海には光の鱗が浮かんでいる。時折体を撫でる風は僅かに肌寒く、夏の終わりを魚住に吹き込むようだった。運動部にはインターハイという夏がある、夏が終わったと彼らはいうが魚住の夏は始まりもしなかった、秋口の気配は改めて予選敗退を思い起こさせた。海面を走る光の線に目を細めて魚住は波音に耳を向ける、寄っては引く波の泡立ちが白く弾けてコンクリートへ「ザァーン!」と、仙道の声が合わさった。思わず目を向ければ釣糸を眺めていた横顔は魚住を見下ろしていた。
「海の音っていわれると波がでてきますよね」
 大きく波が打ち上がる。
「そうだな」魚住は先ほどより荒れ始めた海へ目をやり「オレはもう少し静かな波が出てくる」
「ザザァーとかです」
「ザァーくらいか……ん、同じか……?」
「このくらいですかね」
 荒れ始めていた海は大人しくなり静かに揺れて細やかな音が連なっていた。
「魚住さん」と魚住の答えを待たずに仙道は続けた。
「これって宇宙でも聞けるんですよ」
 風も止みただ揺れる釣糸と静かな波音だけが広がって、魚住は変わっていく起点として今があるのだと感じた。仙道もそうだろう。ふとしたとき魚住へと語られる、思いつきのような冗談もこれが最後なのかもしれないと。何事も最後は惜しいのだろう、魚住は宇宙でも聞けるさざ波の正体を仙道に問いかけた。釣糸が大きく揺れる。
「バスケット星人の泣き声です」
「ははは、いつもの宇宙人か」

 五月のあいまいな気温は、春というには暑く、夏というには冷たいもので、衣替え前の上着の中でこもった熱にじわりと汗が滲むことがある。魚住は制服の襟を緩めながら、ゆっくりと校門へと向かっていた。グラウンドでは運動部が動き回り、夏に向けた追い込みをしているようだ。ランニングをする集団の中にバスケ部員たちを見つけ、魚住は思わず足を止めて体を縮ませる。バスケ部に足を運ばないままに一年が過ぎていた。入学時にかけられた言葉がよぎり、頭を振り深く呼吸を繰り返す。ため息をつき伺うように目を向ければ、合間に池上の姿も見え、ますます腹は重たくなった。池上には部活中に世話になった、彼に一言くらいあってもよかったんじゃないか、だが今更どう声をかけるべきか魚住には分からなかった。鳩尾に冷ややかな不安が渦巻くと、気持ちの悪さを誤魔化すように腹をさすって背を向ける。と、背中に触れる影があった。
「だいじょーぶですか」
 立たせた髪が目立つ男だ。狼狽えて頷いた魚住の背をひと撫でして「ほんとに」と気遣いを口にする。近づけられた顔から視線を外し、ほんと、と返すも背中に添えられた手は離れなかった。「きみ、」と口にしかけ、男の背の高さに気がついた。二メートルある魚住に対し一回りの違いしかない。バスケをやっているんだろうか、と考えたところで「仙道」と呼びかける声が飛び込む。
「大丈夫だから」魚住はそっと仙道の肩を押す。
「そうですか。気をつけてくださいね」
 暑くなってきましたし。走り去る背中の先、見知った眼光を一際鋭く感じると魚住は逃げるようにその場を後にした。暑くなってきた、うなじに受ける熱は確かに体を不気味に泡立たせ続けていた。

「田岡先生を呼んできてくれ」
 魚住は途方に暮れながら体育館からわずかに離れた場所で立ち尽くしていた。おまえバスケ部だったろ。手のひらに汗が滲み、魚住は内心のいたたまれなさを取り除くようにズボンで拭った。だれか来ないだろうか、他の部活のやつでもいい。時間をかけるわけにはいかないと分かっていたが、魚住の足はぬかるみに囚われたように動かない。強く目を閉じる。意識し、ゆっくりと呼吸をしかけたところで間延びした声が背中に覆いかぶさった。
「どしたんですか」
 魚住は隣に並び立った仙道の見下ろして、その、と口ごもる。その様子を急かすでもなく見つめながらも、田岡センセーですか、と仙道は問いかけた。頷く魚住に相づちを打って言葉を続ける。
「代わりに伝えておきますよ」
 仙道の提案に魚住は分かりやすく安心した顔を見せた。
「ありがとう……山重先生が呼ばれていたって」
「ああ、はいはい。オッケーです」
 被せるように答えてから、仙道は思いついたように、
「魚住さんですよね」
 顔を強張らせながらゆっくりと頷いた魚住へ「仙道です、これで挨拶終わりましたね」笑いかける。体育館から田岡の鋭い怒号と、続けて張り上げられた大勢の声が聞こえてくる。仙道は体育館へ顔を向けて、気の抜けた声をあげた。
「スゲー怒られそ」
「早く行った方がいいよ」
 田岡の厳しさは僅かに在籍していた魚住もよくよく知っている。昨年に遅刻を叱り飛ばしていた姿を思い出して魚住は眉を顰めたが、仙道は気にした様子もなく「今って部活なにしてるんですか」と話を変える。何も、答えた魚住に目を向けると仙道は片手を出した。狼狽えながら魚住も手を出して、伺うように、戸惑いがちに手を握る。
「魚住さん」強く握り返された手が二、三度振られ、「また会いましょ」
 手を離すと仙道は小走りで体育館へと向かった。その背中を暫く眺めてから、魚住は校門に足を向けた。道すがら魚住は握られた手に目をやり、指先で手のひらを撫でると拭うように制服へ手を押し付けた。

「だから来年の七月には世界が終わってくれるはずなんだよね」
 クラスメイトの話を聞きながら、魚住はそれは困ると口を挟む。
「夢が叶わないじゃないか」
「なんだっけバスケ選手だっけ」
 板前だ、と魚住が苦々しく答えると、興味の無さを隠さない声で返事を返してくる。去年と引き続き同じクラスになった男は魚住の話をろくに聞かず、喋りたいことだけを喋り続けている。最近の話題はもっぱら来年の七月に世界が終わるという予言についてだった。
「あれ? 部活は? バスケ部って何か大会ないっけ」
「辞めたよ、前に言ったろ」
「根性な!」
 クラスメイトの笑い声を聞きながら、魚住はいかにも不満げな表情を浮かべると、
「お前のそういうところ、本当にどうかと思う」
 窘める声色で続けた。まあまあ来年の七月までだから、ふざけた様子に終わるわけないだろと呟く。目を向けた黒板には五月二十二日と書かれていた。
「仮に終わるとしてさ、空からやって来る恐怖の大王は何がいい?」
 隕石とか異星人とか、火山の大噴火とかね〜。指を折り曲げ嬉々として数える姿に魚住は溜め息をついた。これ見よがしに、呆れましたとこめかみを押さえてみせるものの、その姿を気にされることはない。次々と展開される言葉の波を遮るように「異星人だ、異星人」と魚住は声を張り上げる。料理でも振る舞うの、と小馬鹿に返されると魚住はいよいよクラスメイトの頭を耐え切れずに叩いた。
 授業も全て終わり、下校を促すチャイムが鳴っている。「じゃ、またね」と席を立ったクラスメイトに挨拶をしつつ魚住も立ち上がり鞄を手にした。部活に向かう声が聞こえる。夏も近いせいか拾う言葉は予選だとか大会だとかだ。鞄を持つ手に力が入る。魚住は頭を振って玄関へと向かった。
「へぇ、七月に世界が終わっちゃうんだ」
 釣糸の垂れ下がった海面から目を逸らすことなく仙道は欠伸をする。堤防をぼんやりと歩いていた魚住が、釣りをしていた仙道から呼び止められたのはつい先ほどのことだ。部活はいいのかと聞いたが答えはなく、魚住はそれ以上の話題も探せずに苦し紛れでクラスメイトとの会話を挙げた。来年の七月に世界が終わる。
「なら全国も無理ですね」と仙道は笑った。
 田岡センセーかわいそ。誰に言うでもなく落ちた言葉に魚住は体をこわばらせた。波の音がいやに大きく響いてくる。七月かあ、繰り返した仙道は首をかしげ、
「この話って前もあったんですっけ」
 魚住は特に見聞きしたこともなく、投げられた疑問に否を返すと、仙道は魚住を見上げた。合わさった目は散乱した光を纏っている。仙道の黒い目の中で、その光はより目立っていた。
「来年の七月、一緒に迎えませんか」
 異星人見たいでしょ。見たいでしょって、魚住は困惑から抜け出せず、反射のように声を出す。目を逸らして、水平線に視線を投げた。光がちらついて海面を彩っている。戸惑いを含めた唾を飲み込み、
「オレとキミ、そんな仲じゃないだろ」
 黒い目を瞬かせてから仙道は少し唇を曲げてみせた。顔を背けて、リールを巻き上げていく。海面から出てきた釣糸の先には釣針がなく、そのまま竿を短く格納してからケースへしまうと仙道は立ち上がった。魚住の前に一歩踏み出す。
「仙道でいいですよ」それから、と言い聞かせるように。
「明日もここにいるんで」

 まさに言葉の通りであった。土曜の朝、まさかいないだろうと過ごしていた魚住は、しかし昼を過ぎた辺りで、もし本当にいたらと落ち着きをなくし、散歩のついでと言い訳をして家を出た。線路を越え、堤防に向かう。そうして、昨日と同じ場所で釣りをしている仙道の姿が鮮明になるにつれ、魚住の歩みは鈍っていった。遅々とした動きで側へとにじり寄った影が仙道の足下にかかる、置かれているのはタックルバッグではなくスポーツバッグだ。部活の帰りかと魚住が口にするより早く、こんにちは、と挨拶が投げられる。変わらず視線は海面へ向いていた。魚住も釣糸が揺れ動く様を眺めながら、短く言葉を返す。波の音に紛れて潮風が体を通り抜けていく。陽光の強さに半袖のシャツを選んだが、海沿いの空気は冷たく、ゆっくりと体温を奪っていた。
「海辺だとまだ少し寒いね」
 魚住はぎこちなく両腕をさすった。仙道の目が一瞬、魚住を捉えるとすぐさまに視線は戻されて釣竿を引き上げる。両手でしっかりと持たれた釣竿が魚住に寄せられ、思わず受け取ると手を離した仙道は足下のバッグを開けた。
「えっ? これ、」
 音を立てて釣糸が伸びていく。慌てふためいた様子を気にかけることなく仙道はバッグから引きずり出したジャージを二度ほど叩いてから、魚住の持つ釣竿と換えるように手渡した。学校指定のものでも、バスケ部で見かけたデザインでもない。背面にはSENDOHと刺繍されている。
「着てください」
 釣竿を持ち直すと再び海面へ目を向けている。魚住が手の中にあるジャージを広げて逡巡していると、
「寒いんですよね」平坦な声だ。
 ジャージの生地を弄る魚住に目を向けると、仙道は首をかしげた。一段と強い風がシャツの合間に飛び込んで、かすかに鳥肌が立つ。観念したように魚住は袖を通した。小さいんじゃないかな、と呟きながらも着たジャージは小さくも大きくもない。「大きめにしてたんですよ、ちょうどよかったですね」魚住はつかえながらも礼を伝えると、仙道の側に座り込んだ。
「あの、キミさ」
「仙道です」
 間髪を入れずに訂正される。
「……仙道くん」
「仙道」
 言い聞かせるように告げられ、魚住は眉を下げて呼び方をなぞった。喋ろうと口を開いた魚住を無視して仙道は続ける。
「魚住さんって、バスケやってないとそんななんですか」
「そんな……? 失礼なやつだな」
 思わず非難めいた口調になったものの、仙道は満足そうな表情を見せ、
「それともオレがバスケ部だからですか」
 息を飲んで魚住は海面を強く見据え、自然と手を握りこんでいた。違うよ、否定をするものの声は震えている。緊張をした体を貫くようにウミネコの一声が通り過ぎた。指先まで強張らせていた力が抜けていく。
「——今日、オレのこと待ってたの?」
 釣竿を数度動かしながら仙道は頷いた。「そりゃもちろん」垂れ下がる釣糸に反射した光が動いていく。理解が出来ないと言いたげな表情を魚住は浮かべたが、それ以上の追及をすることはない。小さく揺れては寄せられるさざ波の音に耳を澄ます。魚住は膝を抱えて小さく丸まった。
「仲良くなりたくって」仙道の言葉が波間に落ちていった。
「オレ、魚住さんのことが好きなんで」
「会ったばかりじゃないか」
「そういうことないんですか」
 考え込むように魚住は眉を寄せて、暫くして「なるほど」と納得した。
「そうだな、うん……」
「あはは。よかった」
 釣竿が大きく持ち上げられる。釣りをやめるようだ。リールを巻きながら、友達ですねと喜ぶように声を弾ませた仙道は、はたと動きを止める。
「先輩と後輩じゃおかしいですか」
 如何にも真剣な表情で問いかけてくる姿に、魚住は思わず笑い声を漏らす。「変なヤツだな」釣竿をしまいながら仙道は唇を尖らせる。
「いいよ、それこそ部活なら違うんだろうが……」
 自然と出た言葉だった。魚住は少し驚いた顔をして、着ていたジャージの袖に目をやった。くすんだ色味と僅かばかりくたびれた生地だ。
「中学んときのです」
「ああ、これありがとう。洗って返すよ」
「いやオレも使ってるし、いいですって」
 それとも家まで着てきますか。ジャージを脱いで畳みながら魚住は今返すと答えた。手渡されたジャージを乱雑にバッグにしまい込み仙道は立ち上がった。堤防を歩きながら交わした会話の中で魚住は仙道が東京から来たのだと知った。田岡からのスカウトであったとも。
「スカウトってことは上手いんだな」
「ははっ、センセーの勢いすごかったですよ」
 魚住は仙道の横顔を見つめた。視線に気がついた仙道が顔を上げる。田岡からかけられた数々の期待を魚住は思い出した。予選がんばって。魚住の言葉を受けた仙道が眉を下げて笑った。

 クラスメイトが言うところの世界の滅亡まであと一年、学期末テストの始まりまであと数日。七月一日水曜日、魚住は板書されていく文字をひたすらに追ってはノートに書き写していた。気温もすっかりと上がり夏が顔を見せ始め、教室の中には熱気が立ちこもっていた。時折、汗が滲んだノートに鉛筆が引っかかる。開け放たれた窓からの風を受けて、魚住は思わず外へと目をやった。運動場では体育中の生徒が声を上げて動いている。ボールを蹴りながら走る中に見覚えのある姿を見つける。仙道だ。魚住はボールを運ぶ仙道の動きを目で追った。ゴールネットが浮き上がる。両手を上げて喜ぶチームメンバーに囲まれ笑う仙道に魚住の口元も緩やかに上がった。目を離して黒板に向き直る。僅かな時間だというのに夥しく増えていた文字たちを、消される前に書き写さなければならない。

 弁当を食べながら、魚住はクラスメイトの雑談に適当な頷きを返していた。今回のテスト範囲広すぎる。そもそも教室が暑くてやる気がしない。暑いのは確かに魚住も同意するところだ。食べ終わり空になった弁当箱を包み直していると、
「魚住! センドー!」
 呼びかけに顔を向ければ、ドア近くの席に座るクラスメイトが指で人影を指し示す。顔を覗かせた仙道が手を振っていた。魚住のクラスに姿を見せるようになったのはここ半月のことだった。
「あいつ、ようくるな〜」
「ちょっと行ってくる」
 いってらっしゃ〜い、見送る声を背に受けながら魚住は仙道の元へと向かう。ちょっといいですか。頷いた魚住を見て、仙道はじゃあ屋上と短く伝えた。廊下では食事を終えた生徒が各々の時間を過ごしているようだ。仙道に気がつくと何人かは軽い挨拶をしていた。インターハイ予選の活躍を受けてのことだろう。惜しくも全国への出場は叶わなかったが、それでも仙道のプレイは凄まじいものだと聞いている。
「夏休みなんですけど」
 屋上に繋がる階段を上りながら仙道は口を開いた。
「どっかで遊びに行きませんか」
 踊り場に辿り着く。屋上に繋がるドアを開けると、目に刺さる光が溢れ返った。日差しの強さも相まって、人影は少ない。塔屋で出来た日陰に入ると魚住は呆れた声を上げた。
「屋上まで来て言うことか」
「二人になりたかったんですもん」
 仙道はねだるように答えた。
「合宿とかあるだろ」
 魚住の言葉を受けて仙道の目が空に向く。僅かに体を傾けて、考え込んだ声を出す。魚住は今までの対話で知った仙道の人となりを思い起こすと眉を上げた。
「オレが言うことじゃないけど、お前はスタメンなんだからちゃんと出るべきだ」
「そりゃそうですけど」
 魚住から苦言を呈されているが、どこか浮き足立った返しだった。仙道は魚住の厳しい言葉ほど喜ぶ節がある。軽い笑いを溢してから、仙道は「合宿終わったら」と続ける。
「それ以外だったら遊んでくれますか」
「日程が合えばな」
「合わせますよ、それくらい」
 だからもう決めましょうよ、と仙道は魚住に身を寄せた。「手帳に書いちゃいましょ」魚住の胸ポケットを突いて生徒手帳を出すように促す。
「書くものがない」
「鉛筆あります」
「……用意がいいな」
 仕方ないといった顔で魚住は手帳を出した。年間カレンダーのページを開いて、どうすると手帳を仙道に向けた。次々と上げられていく日程に「そんなに遊べるか!」と魚住が声を荒げる。
「言った日ぜんぶ遊んでくれるつもりだったんですか」
 魚住の肩へ額を押し付けて仙道は大きく笑う。珍しく弾けた声が屋上に響き渡った。からかうな、と魚住が顔を赤らめて笑い揺れる仙道の体を押した。素直に体を放すと、魚住の顔をまじまじと見つめ、
「髪、切らないんですか」
「お前のその飛び方どうにかならんのか」
「短いの似合うと思うんですよ、ほら、染めるのもやめて」
 途中で仙道の言葉は止まった。魚住も黙った仙道を見つめながら「黒染してるって言ったか?」と疑問を口にした。
「根元ちょっと色違ったんでそうかなって」
 魚住はさして気にした様子もなく納得すると手にしていた手帳をはためかせて「それより夏休みの予定だろ」と急き立てるように言った。仙道が手帳を覗き込んで、再び日付を口にする。それを聞きながら魚住も、いくつかの日付を鉛筆で叩いていった。

 八月の終わり、浜辺には未だ海水浴にきた人々で賑わいを見せている。
「家きませんか」
 横に立っていた仙道の提案に魚住は頷いた。人々の声と波の音が混じり合って風と共に吹き抜けていく。仙道の指が魚住の手のひらに当たり、その感触は腕を駆け登る。

 夏休みの記憶がない、と魚住は言った。九月一日、新学期の始まり。始業式が終わった教室は担任の教師がくる間、生徒たちの喧騒に包まれていた。
「ようくる後輩と遊ぶって言ってたじゃん」
「そうだ、遊んだ」
「記憶あるじゃん」
「……ふんわりとしている」
「こわぁ」
 言うもののクラスメイトは「まあでも確かになんかふんわりしてるわ、何してたっけ?」と腕を組む。似たようなことしてると忘れちゃうんだよな。ぼやきを受けて、魚住はどうだっただろうかと思い返そうとするが、やはり夏休みの出来事は薄ぼんやりとしていた。父親と競市に行った。夕飯に出す副菜を一品手伝って味を見てもらった。課題をやって、八月の後半に仙道と遊ぶ約束をしていて。魚住はそこで顔を顰める。仙道と何をして遊んでいただろうか。アイツの家に行ったような……と濁して唸る魚住を眺めていたクラスメイトは、催眠を受けた人と指さし笑う。それから、三つ数えてから指を鳴らすと魚住は何があったかを思い出す、と仰々しい演技をしてみせた。
「一、二、三!」
 指が鳴る。
 だが当然のように魚住が何かを思い出すことはなかった。

 相も変わらず部活には遅れていくようで、終業後に閑散とし始めた教室に顔を見せた仙道は、残っていた生徒たちに頭を下げながら魚住の隣の席へ腰かけた。帰り支度をしながら夏休みのことを仙道に問いかける。
「オレん家でテレビ見てましたよ、あと課題みてもらってたかな」
 あー昼ご飯も作ってもらった、と仙道が人さし指を立てて円を画く。
「そんな気もする」
「嘘でしょ、忘れちゃったんですか」
 魚住はバツの悪い表情を見せた。
「脳も古くなってますしね、それじゃもう一回夏休みしますか」
「ふる……何が言いたいんだ……」
「えーっと、反復学習」
 金具を留めると魚住は席を立ち、
「ほら、バカ言ってないで部活に行け」
「途中まで一緒に行きましょうよ」
「分かった、分かった」
 やったぁ、と仙道は気の抜けた声をあげて立ち上がった。並び歩く廊下はタイミングのせいか人影はなく、仙道と魚住の足音だけが響いていた。遠くから楽器の音が聞こえてくる。その音を聞いてか「ブラスバンドって走り込みもするんですね」と仙道は思い出したように言った。肺活量がいるからかな、魚住の答えに間延びした声と共に頷いている。
「ちゃんと顔出すんだぞ」
 玄関につくと魚住は下駄箱から靴を出しながら仙道に強く言った。行きますよ、と呟いてから仙道は片手を出した。差し出された手の意味を捉え損ねた魚住は動きを止める。
「魚住さん、手」
 焦れたのか仙道は手を振る。訝しげな顔をしながら魚住は手を上げると、仙道の手のひらに乗せた。指が閉じて握り込まれる。再び指の力が抜ける。何度か繰り返して手を握っていた仙道は「やっぱやわらけ」という一言と共に手を離した。

 八月十六日、魚住は仙道の家にいた。学校から少し離れたマンションは海近くなこともあり、窓を開けていると時折波の音が聞こえてくるそうだ。寮もあったはずだが、と聞けばルール多いじゃないですかと仙道は首を振った。広げられたテキストは半分ほど残っていると言っていた。魚住は覗き込むと、部活の連中とやらないのかと問いかけた。前はやったんですけど、と仙道が魚住と目を合わせる。
「今回はずっと魚住さんといようと思ったんで」
「なんだそれ、じゃあ残りもずっと一緒にいるか」
 瞬いて仙道は、本当ですかと続けた。だから早く終わらせるぞ、冗談めかして笑いながら魚住はテキストを指で叩き意識を向けさせようとするが、
「予選なんですけど、赤木さんって人がいて」
 仙道はテキストを指していた魚住の手を掴んだ。いやに強い力で握られて、動かすことができない。「知ってますか、湘北の赤木さん」魚住の様子を無視して仙道は続ける。アカギ、と繰り返して魚住はしかし覚えがないと答える。黒い目には光が散らばり始めている。
「魚住さん、オレってどんな魚だと思います」
 仙道、と窘めるように口にして腕を引こうとするもやはり握られた手が動くことはない。どんな魚になるのか、問いかけに魚住は何も思いつけなかった。あれほど見てきた魚があるというのに適当を言うこともできず、ただ分からないと言うことしか出来なかったが「時間あるんで、ゆっくり考えてください」と、仙道は答えないことを許さなかった。

「やっぱ海南と翔陽って強いですね」
「残念だったな」
「うーん、まあこうなったら来年がんばります」
 魚住さんがいる間に全国行かないとですね。ウィンターカップの予選も終わったらしく、数日は休養とし部活がないそうだ。魚住のクラスに当然のごとく顔を見せた仙道は、ここぞとばかりに「だから一緒に帰りましょう」と魚住の手を引いた。秋口の心地よい風が頬を撫でていく。
「こういうとき、魚住さんって何して帰ってたんですか」
「どういうときだ」
「そりゃ気心の知れた相手といるときですよ」
「オレはお前のことさっぱり分からん」
「ええ、疑りすぎなんじゃないですか」
 そうではない、といった目を仙道に向けるも魚住は諦めたように溜め息をついた。仙道の会話は時に独特のテンポを見せる。不意打ちのように放たれる言葉の数々は魚住に扱いきれないものだった。
「買い食いとかしたことありますか」
 少し考えてから、いや、と首を振る。仙道は魚住の腕を掴み「コンビニ行きましょう」と強引に歩を進めた。突然変わった方向に足をもつれさせながら魚住は着いていく。
「待てまて! 仙道!」
 珍しく足早に駆ける仙道を止めようと魚住は声を張り上げたが、当の本人は聞こえていないと言いたげに速度を一切緩めようとしない。進んで、右折をしてまた進む。普段と違う道の先、コンビニが見えるとやっと仙道は歩を緩めた。お前なあ、と呆れ半分の声を流して振り返ると、
「肉まん食べましょう」
「好きにしてくれ……」
 ありがとうございました、と店員の声が飛ぶ。軽快な電子音と共に外へ出ると、脇に外れて肉まんの封を開けた。「おでんでもよかったかも」と仙道が今さらなことを言っている。魚住はといえば、大入りでいいですよねと勝手に頼まれた肉まんを口に含みながら果たして夕飯を食べ切れるかと思い悩む。
「七月まで一年切ったじゃないですか」仙道が咀嚼しながら話始める。
「それで植草から聞いたこと思い出したんです」
 思わず「ウエクサ?」と聞き返した魚住に、ああとぼやくと「部活のやつです」と仙道は付け足した。肉まんに再びかぶりつきながらも話続けようとするのを、食べ終わってからにしろと魚住が諌める。何を話したいのか、仙道は次々と肉まんを含み飲み込んでいき、最後の一口を食べ終わると袋を丸めてゴミ箱へと捨てる。魚住の手にはまだ半分残った肉まんがいる。
「公転周期の話になって、」
 仙道の指が何度も円を画く。
「人間にも周期があって、同じような経験をして、同じ人と再会するんですって」
 回り続けていた指が止まる。
「それが二千五百万年で」
 肉まんを食べながらも、話を聞いていると伝えるため魚住は軽く頷いた。
「だからその二千五百万年さえ経てば、オレは魚住さんとまた会えるんですよ」

 中間テストの返却も終わり、学年毎の順位表が各階の廊下に張り出されている。魚住は順位を確認すると、ギリギリ半分と呟いて、ふと成績上位の並びに目を滑らせていたが、その横で普段以上に騒がしいクラスメイトが「補習いやだぁあ」と喚く仕草に気を取られる。
「返された時にわかってたろ」
「ワンチャンかけてたの!」
 補習一緒に受けようよぉ、と縋り付く手を払いのける。「お先真っ暗だ〜」項垂れる背中を辟易として見やり、来年世界は終わるんだろと投げやりに慰めれば、震えていた背中がまっすぐに伸び、両手が一度打ち合わされる。クラスメイトの顔が憐れむように歪められていた。
「うんうん、そうだね、来年世界は終わっちゃうもんね」
 その言葉の意味するところを察すると魚住は顔を赤らめて「オレは信じてないぞ!」と否定する。お前が言ってたんだろう。聞く耳を持たずに両手をあげ、いいのよ素直になりなさい、とやたらに優しく語りかけてくるクラスメイトの頭を腕で締め上げれば、
「嘘じゃん! 嘘じゃん!」
 弾ける悲鳴を流して魚住は更に力を込めていく。ぎゃお、と芝居がかった叫声が上がった。
 と、いう話を魚住は玄関ホールの片隅で仙道へと話していた。興味なさそうに鼻を鳴らしてから、そんなことより、と魚住の言葉を遮ると、
「オレ結構いい感じだったんですよ、褒めてください」
 頭を魚住へと擦り付ける。仙道の逆立った髪の毛で首筋を擽られながら、魚住はその後頭部を乱雑に撫で上げた。ワックスで固められた髪が潰れ、くしゃりと音を立てている。
「どんなもんだったんだ」
「へへ、十三位です」
 仙道は無邪気な顔を見せたが、一方で魚住は苦虫を噛み潰したまでいかずとも渋い顔を浮かべてみせた。引き離そうと仙道の肩を掴むが回り込んだ腕が魚住の腰を捉えているせいで微動だにしない。
「本当に課題を手伝ったのかいよいよ分からん」
「教え方が上手いんですよ」
「そんなわけあるか。おい、いいから離れろ!」
 もうちょっと、仙道の甘えた声が耳元を転がっていく。充分だろ、と呻いて引き離そうとする魚住に「少し鍛えた方が良いですよ」と仙道はからかった。

 文理選択の用紙に黒点がいくつもちらばっていた。夕日の差し込む教室、魚住は頬杖をつき鉛筆を遊ばせながら考え込んでいる。もう数人しか残っていない教室でも、談笑する声が賑やかに木霊する。
「魚住くーん、」
 呼びかけに気がつくと魚住は顔を向けた。少し離れた席で話していた生徒たちが、呼ばれてると魚住を手招いている。教室の入り口に目を向ける。
「わりぃ、どっかに紛れ込んでたみたいでよ」
 魚住は自分より幾分か背の低い男が差し出したタオルに目を向ける。見覚えのある店名が書かれたタオルだ。父親がよく連れていってくれた場所だった。
「今さらだけど、ありがとな」
「いや、気にしないで池上くん」
 池上からタオルを受け取りながら魚住は鼓動が乱れていくのを感じた。一方で池上は平然としている。タオルが受け取られたのを見ると、軽い挨拶をして背を向けようとする。思わず魚住は声を上げ呼び止める。怪訝な顔を見せた池上に、ええっと、とタオルを握りしめた。
「オレもいまさらなんだけど」
「なんか貸してたか?」
「そうじゃなくて」
 深く息を吸い込み、
「部活のとき、ありがとう」
 池上の表情に代わりはなく、ただ「ああ」と呟いただけだったが何かを思い出したように眉を上げると、
「仙道のやつと仲良いって?」
「え? ああ……よく話すよ」
「朝練でるようにお前からもいってくれよ」
 うんざりとした表情だった。
「アイツがいるの五割もねえんだ、先生大荒れでさ」

 隣を歩く仙道が黙り込む。魚住は落ち着かない表情で「ごめん」と小さく謝罪する。
「謝ることじゃないですよ」
 そう答えるものの仙道の態度は普段よりも固いものだった。逃げるように魚住の目が遠くへ向けられる。住宅街の隙間から水平線が覗いて、街の光を反射していた。
「少しだけ時間ありますか」
 仙道の家に来るのは何度目のことであろうか。お邪魔します、と口にして靴を脱ぐ。「座ってていいですよ」と玄関の鍵をかけながら仙道が先へ促した。魚住は慣れたように廊下を進み、ドアを開けると壁際のスイッチを探り指で押す。数度の点滅の後に電気が点いた。台所とその側に小さな机と椅子があり奥には引き戸がある。上着を脱いで椅子の背もたれにかけ、足下に鞄を置く。椅子に腰かけると魚住は後から姿を見せた仙道の様子を窺った。
「それで、どうしたんだ」
「あーええっとですね」
 上着を脱ぎ乱雑に床に放り捨てると仙道は少々悩んだ様子で、
「朝練なんですけど」
 道すがら話した内容を口にする。朝練にあまりいないと池上から聞いたがしっかり出ないと、言葉の途中で魚住は仙道の表情が固くなっていることに気がつき、思わず謝罪をしたのだ。
「池上さんから聞いたって」
「ああ、悪かったよ関係ないオレが——」
「それはどうでもいいんですけど」
 仙道が魚住の側へと立った。口元を手で隠して何事か考えている素振りを見せる。
「おかしいな」
 言い終わるや否や仙道の手が魚住の片耳を力任せに捩じり上げた。唐突な痛みに声を荒げた魚住を意に介さず掴んだ手を動かした。動きに合わせて魚住の体もついていき、椅子から床へと転げ落ちる。手を離すと仙道は横たわる魚住の体に跨がった。掴まれていた片耳を押さえて痛みに耐える魚住の目には涙が溜まっていた。「んー、」と仙道は先ほど同様に思案していると言いたげに声を漏らした。混乱したまま魚住は仙道の名を震えて口にする。乗り上げた体を押し退けようと身じろぐと、鼻柱のひしゃげる音がした。
「ちょっと考えるんで」
 殴られたのだ。握られた仙道の拳が振り上げられると、魚住は声を上げ両手で顔を覆った。
「そうそう、待っててください」
 仙道は歪に呼吸し揺れる魚住の体から腰を浮かすと、べったりと合わさるように体の上へと横たわってみせた。薄い胸から早鐘を打つ鼓動の感触がする。目を閉じる。魚住の呼吸が仙道の体に広がっていく。「せんどう」と魚住がからがら口にする。乾いていて、かすれた声だった。目を開ける。両手を這わせて肩を押え付け上体を起こし「オレ言ったのにな」と仙道は呆れてみせた。魚住は押え付けられる力の強さに身じろぎ一つとして出来ず、ただ己を見下ろす仙道の顔を見るほかなかった。

 乾いた音が二度、鳴った。喧騒の中でもはっきりと聞こえる音だ。魚住は人ごみの中で同じく両手を叩き、頭を下げ、再び手を叩く。横では仙道が緩く手を叩いて頭を軽く下げていた。参拝をすぐさまに終わらせると仙道は魚住の袖を引いた。後ろから押し寄せる人の合間を縫うように境内を進んでいく。
「なにお願いしたんですか」
 騒めきの中であったが仙道の声は欠けることなく魚住の耳へと届く。お願い、と唇を動かす。石段を降り切ると人影も落ち着いた様子を見せる。寒いですね、と両手を擦り合わせるとおでん食べませんかと仙道は続け、魚住は頷いてコンビニへの道を並んで歩く。やがて煌々と輝く建物が姿を見せた。おでんは売り切れていて、空になりかけた商品棚を順に見ていく。「食パン」と仙道が言った。魚住は少々狼狽えてみせたが仙道は気にせずに六枚切りの食パンを手に取り、ファンタも買いましょうと駆け足でドリンクコーナー向かう。その後ろ姿を追いかけながら、魚住は温かいお茶の姿を探した。
「買い食いもサマになってきましたね」
 仙道の言葉に魚住は食パンを味わいながらも唇を突きだし、
「ずっと悪いことしてる気分だ」
 とパンを飲み込んでからぼやいてみせた。仙道は軽く笑うと思い出したように、
「そういえば願いごと」
「してない」
「初詣ですよ」
「こういうのは住所と名前と一年の礼を伝えるんだ」
 仙道の目が呆気に取られて開かれる。魚住は温くなった焙じ茶を一口飲むと、お前はどうなんだと話を振った。
「来年は学年七位になれますようにって頼みました」
「また微妙な数字だな……」
 いやあ七位ですよ、と仙道は歩を早め「それで三年には学年四位になるんです」掴んでいた袋から食パンを取り出して口にくわえた。咀嚼に合わせてパンが揺れている。
「家泊まりに来ませんか」
 魚住の歩みが止まった。
「オレ一人なんで寂しいんですよ」
 振り向いて仙道は食パンを食べ進め最後の一口を飲み込んだ。その姿を眺めながら魚住は押し黙っていた。仙道が一歩を踏みだす。魚住との距離が縮まって、すぐ側に仙道の体があった。
「どうかしました」
 魚住の目が瞬く。いや、と口ごもってから「家に電話するよ」慣れたように続ける。ペットボトルを持つ魚住の手が小刻みに震えているのを見ると、暖房つけたまんまなんであったかいですよと仙道は手を重ねた。

 冬休みの記憶がない、と魚住は言った。クラスメイトは「ボケた?」と軽口を叩く。
「まあでも確かになんかふんわりしてるわ、何してたっけ?」
 腕を組み「似たようなことしてると忘れちゃうんだよな」ぼやくクラスメイトの姿に魚住は眉を顰める。
「前もこんな話しなかったか」
「そうだっけ、日常回じゃん」
「なんだよそれ」
 オレら集団催眠でも受けてるのかもね、片手に持ったオカルト雑誌を丸めて振ってから、クラスメイトは「三つ数えると……」とかしこまった面立ちを見せたが、チャイムの音と同時に教室のドアを開けた教師の声によりあえなく中断された。
 仙道と魚住は堤防にいた。普段通り座り込んで海面を見つめる仙道が魚住の話に耳を傾けている。話が途切れると釣糸を軽く動かして、
「初詣行きましたよ」
 揺らされた釣糸が大きく動いたが、リールが巻かれることはない。
「それから雑煮あるからって魚住さん家に行って泊めてもらいました」
 あの雑煮うまかったなあ、平素と変わらぬ様子で話される内容に魚住はゆっくりと頭を動かして唸り声を上げた。波の収まった海にその声はよく沈んでいく。
「まあ、オレが覚えてるからいいじゃないですか」
「よくない」
「あはは、意地になってら」
「当たり前だ、一緒に過ごしたんだから」
 覚えておきたいだろ、魚住は腕組みをして溜め息をつく。仙道は魚住を見上げた。
「それ池上さんにもやってたんですか」
 仙道の口から突然滑りだした名前に魚住は体をこわばらせる。「なんで池上くんが出てくるんだ」恐々とした声色だ。仙道が口を開けて意味もなく音を漏らす。そうだった、と呟くと再び海面へと目を向けた。
「安心してくださいよ、オレのことはみんな覚えてるんで」
 それきり黙り込んだ仙道から目を離して、魚住も静かに波立つ海へと目を向けた。

 四月一日、新しい一年が始まる。クラス表を眺めていた魚住は後ろから腕を叩かれて振り返る。二年の間ですっかりと見慣れたクラスメイトが両手を広げていた。胡乱なものをみる目をした魚住に「もっと喜んでよ!」と大声を張り上げている。
「一緒、一緒! 今年もよろしく!」
「オレは離れたかったが」
「はいはい、言うとけ言うとけ」
 背中を押され魚住はその力に従って足を踏みだした。教室や廊下では新しいクラスに対する会話が広げられている。
「魚住くん、アレ」
 新学期に向けた説明も終わり、半日で学校は下校のチャイムを鳴らしている。帰宅の準備を始めていた魚住はかけられた声に短い挨拶をして目を向ける、その先では仙道が手を振っていた。慣れ親しんだクラスメイトが「懐かれてますなあ」とからかい交じりに去っていく。呆れて肩を落とす魚住を気にすることなく仙道は帰りましょうよと声を張り上げていた。
 並んで歩いていた仙道は手を上げると魚住の腕を小突いて、
「一番乗りですね」
「そうだな」
 反論することもなく魚住は溜め息交じりに答えた。吹いた風に潮の匂いが混じっている。四月になり春が訪れたものの、冬の気配は微かながらに残っている。
「もう卒業なんですね」
 仙道の言葉を受けて、魚住は「気が早いな」と笑った。
「全国行くって約束したじゃないですか」
 魚住の目が細められる。
「それ忘れてた顔ですよね」
「いや! 覚えている、ぞ……」
 スクールバッグを持つ手に力を込めて「けど約束なんてもんじゃなかったろ」と魚住は口を尖らせた。魚住さんって、と仙道は口にするが続けられることはなく、魚住は眉を下げ「すまない」と謝罪する。

 クラスでは予選を見に行くかという話題が時たま聞こえてくるようになった。黒板消しを手に授業の名残を消しながら、魚住は縁に書かれた日付へ目を向ける。六月も数週間が過ぎていた。三年になったとき、魚住の口が勝手に言葉を滑り落とす。黒板消しを持つ手に力が入る。頭を振って強く瞬きをすると、魚住は残りの板書を消すために大きく腕を動かした。
「ああ、予選落ちですよ」
 仙道が事も無げな様子で答えた。辿り着いた堤防では殊更強く海風が吹き魚住の首を撫でていった。肩にかけたロッドケースをそのままに仙道は海を眺めている。視線の先を辿って魚住も水平線に目を向けた。
「残念だったな」
 仙道が振り返った。
「泣かないんですね」
「オレが?」
 お前じゃなくてか、と問いかける魚住から目を離すと仙道は足下にあった縄をつま先で突きながら「もうすぐ七月ですけど」と呟いた。
「オレたちもうそんな仲ですね」
「いきなりなんだよ」
 魚住の返しに仙道が顔を上げる。
「一緒に七月迎えましょうって話」
 約束しましたよ、続いた言葉に魚住は首をかしげる。「三十日、水曜だろ」考え込むように伝える魚住の手を仙道が掴んだ。何かを言うでもなく握られたままの手に目をやり魚住は唇を曲げる。波音が耳をついた。
「分かった、聞いてみるよ」
 ダメだったら諦めるんだぞ、諭すような響きも含んだ魚住の言葉に仙道は頷いた。しかし離されることのない手を魚住は軽く握り返す。仙道の指先が跳ねる。
「来年がある」
 お前が三年になったとき。魚住は田岡の姿を思い出していた。
「全国、お前なら出来るよ」
 仙道の額が魚住の肩へと押し付けられた。乾いた笑いが繰り返される、魚住は仙道の背中を緩やかにさすった。

「なんか、荷物多くない?」
 クラスメイトの言葉に魚住は後輩の家に泊まると返した。「仲良しだねえ」平日に泊まる意味が分かんないけど、言葉を続けるクラスメイトの手には六月から繰り返し読んでいたオカルト雑誌がある。「それずっと読んでるだろ、飽きないな」表紙には『1999年8月、太陽の光が消える!?』と仰々しい言葉が踊っていた。
「大予言もピークなんだって、八月には恐怖の大王が降ってくるしさあ」
「ああ……それ七月とか言ってなかったか」
「言った気もするし言ってない気もする」
 適当だな、と魚住は呆れた目を向け「それより一般受験だろ、勉強しろ」と忠告をする。飽き飽きとした顔を見せたクラスメイトは、この話はお終い、と言って机に突っ伏した。
「はぁ、八月だったんだ」
 仙道の家までの帰路、魚住の呆れた語りを聞きながら仙道は夕日を見ていた。「まあでも七月でって決めちゃったし」興味無いと言いたげな声色で仕方ないですよねと仙道は呟いた。
「七月になる瞬間、一緒に迎えましょうね」
 夜更かしの提案に魚住は渋い顔を見せた。「十時には眠くなるんだ」と抵抗するものの「寝ていいですよ、起こしますんで」と返される。
「もしやるなら八月だろ」
「そりゃそうかもですけど、七月でいいんですよ」
 仙道が折れる気配はなかった。諦めて肩を落とした魚住が、起きれなくても許してくれと口にした。
 海の音が近い。魚住は暗闇の中で目を醒ました。仙道の手は肩に置かれたままだ。
「起きれましたね」
 カーテンは開けられているようで、ほのかな光が時折室内を照らし込む。魚住は体を押さえ込んでいる仙道を見上げ、瞬間、この部屋で起こった数多の出来事を思い出していた。自然と強張っていく体を誤魔化そうと呼吸を繰り返す。意識された呼吸に気付いたのか仙道は魚住の体に寄り添った。押え付けていた手が肩から腕を辿り、魚住の手を握り込む。
「髪、結局そのままでしたね」
「髪?」
 突拍子のない言葉に魚住は目を見張る。仙道の手に力が入り指の付け根が押し込まれる、抵抗も出来ずに開いていく魚住の指が微かに震えていた。
「せ、仙道、七月を見るんだろ」
 気をそらそうと話しかけると仙道は「はい」と体を持ち上げた。「ベランダ行きましょう」風が吹き抜けていった。黒々とした海の上では見たことのない数の星が輝いている。やがて燃えるような強い光を放ち、一つの星が水平線に消えると、その線を辿って大きな光が立ち昇った。遠くから響き渡る轟音が風に乗って届く。聞こえる波音が歪になっていく。
「あんたってオレがわざわざ出向いても何にも変わってくれないんだ」
 星が、幾つもの線を引いて落ちていく。轟音は止むことなく、波音はいよいよ巨大な渦を巻き始めていた。魚住はその光景を目にし、仙道の言葉に気付くことがない。崩壊に目を奪われた横顔を振り向かせるように、仙道は魚住の耳に触れた。途端、痛みを思い出したのか肩を震わせて魚住が振り返る。
「異星人の姿、みせてあげます」

 星がまた一つ落ちた。夏休み、祖父母の家に泊まりに来ていた魚住は閉じそうになる瞼を擦っては空を見上げていた。その中で星が落ちた。星は目映く、近くの山が光に包まれた。魚住は流星を手に出来ると考える。居間では両親と親戚が談笑していて、静かに外へ出ていけば気付かれることはなさそうだった。落ちた山はさほど大きくない、野犬や猪の話も聞かない。大丈夫だろうと魚住は懐中電灯と靴を手に裏口に向かい静かにドアを開けた。夜の空気が体を撫で、知らない鳥と虫の鳴き声が辺り一帯に木霊している。子供の足では時間がかかる、魚住は長い時間を走り続けた気分に陥りながらも山の側まで辿り着くと、息を飲んでから一歩を踏み出した。走る間にも幾つかの星が流れていた。草木が足を引っかけていく。頼りない光が照らす中、突如視界が開ける。夜を薄めるように光り輝いていた。木々はなぎ倒されて中心に揺らめく影がある。魚住は光に対してゆっくりと指先をかざして、熱も感触もないことを知ると揺らぐ影へと駆け寄った。大きな影が動き、それは顔を上げこちらを見るような動作でもあった。逸る心を抑えながら魚住が声を上げようとするのを遮るように、
「魚住さん」
 満ちる光と同じに響き渡った声が何処から発されているかは分からないが、魚住は瞠目しながらも頷く。影が手招きをする。疑うことなく魚住は側へ近寄った。影は肩に触れた。大きな形で魚住の体をなんなく覆い隠せそうだった。
「将来の夢ってなんですか」
「おとうさん!」
 顔を赤らめながらも声を張り上げる。魚住の夢は父の姿だった。父のようになりたい。影が魚住の体へと伸し掛かり取り込むように全身が包まれた。
「ひでぇや」
 さざ波の音がする。
「オレもう何回もやってるのに、」
 目の前の影は宇宙人であろうか。銀色の蛸のような姿を思い出すが、覆いかぶさる影は似ても似つかない。
「この話もずっとしてる」
「よくわかんない」
「でしょうね」
 影が魚住の体から離れた。これが一番反応良かったんだよな、魚住の返答を求めるでもなく呟いている。
「良いもの見せてあげるから一つ約束しませんか」
「いいもの?」
「見てから決めてくれていいですよ、ほら」
 影が空を指し示した。満天の星が動き始め、それら全てが尾を引いている。半円の形に伸び切った光の線が夜空を埋め尽くして、もはや全ての光がいまが夜であることを消し去ろうとするようでもあった。魚住は図鑑で見た写真のようだと興奮してみせる。流星群を撮った写真が目の前の景色と寸分違わずにある。カメラがあればと魚住は飛び跳ねた。すごいとはしゃぐ魚住の体を影は再び捉えて抱き寄せる。
「約束って難しいことじゃないんで」
 まあでもダメなんだろうな、影の中で魚住は回転し続ける星々を見上げていた。

 八月十六日、魚住は仙道の家にいた。海が近いせいもありなかなか窓は開けられないらしい。確かにこのマンションは海側に向かって窓がある、開けていれば潮風が難なく入ることだろう。
「一回だけ開けて寝たら、砂入ってくるしなんか湿っぽいし最悪でしたよ」
「だからってカーテンまで閉めることないだろ」
「面倒になっちゃって」
 仙道が誤魔化すように笑う。魚住は閉め切られたカーテンの隙間から差し込む日光と、点けられた電球の明るさが混じり合う部屋から受ける慣れない感覚に首筋を掻いた。そして一声上げると、思い出したと続ける。
「お前、流川と約束してるだろ」
 その言葉に仙道は呆然とした表情を見せる。さては忘れていたな、と魚住は眉を顰め、
「もうすぐ時間だと言ってたぞ」
 腰に手を当てて少々固い声で続けた。オレといる場合じゃないだろ、と付け足して仙道を今一度見やれば、口元に手を当て魚住をじっと見ていたようだった。
「魚住さん」
 仙道の呼びかけに、首をかしげて先を促す。
「まだ一年目です」
「だからなんだ。いいから外に出るぞ」
 炎天下で見かけた流川を近くの喫茶店へと放り込んで仙道の家に来たのだ、どうして少しの間忘れていたのかを考えようとしてからまずは二人を会わせる必要があると魚住は切り替える。仙道の腕を掴み「ほら」と急かすも動こうとしない。仙道、と魚住が声を荒げるも、
「いやです」
 珍しく焦燥とした声だった。魚住は掴んでいた手の力を緩めると仙道を見やった。俯いた顔から表情を読み取ることは難しい。仙道の腕が捻られて魚住の腕を掴み返す。
「——来年の冬まで、バスケしてくれますよね?」
 縋り付くように寄せられた体を抱き留めると魚住は眉を寄せた。来年の冬、と吐いた言葉を受けて仙道が顔を上げる。黒々とした目に光が散らばっている。
「悪いな」
 魚住の一言に仙道の目が揺れ動いた。
「実はな、オレには夢があって」
「池上さんが言ったら続けてくれたんですか」
 魚住の言葉に被せて仙道は震えた声で吐き捨てる。糾弾するような声色に魚住は戸惑ったが、返す言葉は決まっていた。
「誰に言われようと変わらん」
 本心からの言葉だった。仙道の口から頽れた笑いが落ちていった。魚住は仙道の背中を叩くと「ほら、いいから流川に会いに行くぞ」玄関へと足を踏みだした。一気に力の抜けた仙道の体が頼りなく歩を進める。互いに靴を履いたのを見ると、魚住は玄関を開けた。茹だる熱気が一気に押し寄せて、溢れるほどの日光が眼前に広がった。目映く白く、視界を覆っていく。魚住の意識は溶け出していった。

 さざ波が聞こえてくる。仙道はマンションから飛び出ると海岸沿いを走っていた。衣替え前の上着の中で体温は蟠って汗が滲み始めていた。校門を走り抜けて体育館への道を駆ける。あと一息。やがて見えたドアに両手を押し当てると、数回深呼吸を繰り返す。ドアを開ける。後輩たちの挨拶が響いて通り抜けていく。その向こうでは見知った面々が呆れた顔を浮かべていた。二千五百万年が経った、待ち望んだ最後の夏が始まる。
「わりィ」
 二千五百万年が経った、待ち望んだ最後の夏が始まる。