仙魚のショタ時代からなかよちパロって…?!








仙道がペットを飼っていたのは人間でいうところ齢六歳ほどの夏の盛り、たったの3週間のことだった。
瞬きの間の、それはしかしつい先ほどのことのようにも思える、短かな。魚住という料理人の腕はたいそう良いのだと呼びつけ、連れられた子供こそが仙道のペットで、今でも探る視線と交わすことができる。つまるところはこの男だった、逃げ出したかと思ったら飼い主を忘れて人間確かに振る舞い笑って仙道を気にかけている魚住純のことだ。ならそれも良いかと仙道は頷いた。ペットの幸せなるものは飼い主が望み整えねばならぬ場であるのだと幾多の本にもあるように、そのように学んだのだから仙道は純を幸せにしてやる義務があった。魚住さん、と語りかけ肩を並べて走ってやる。あの時分のようでもある。あまり変わらないのではないか、仙道は大きく両手を広げて相手の行く手を遮る魚住の背を見やる。仙道は物事を甘やかす傾向があった。捨てるか甘やかすかで、ペットは飼い主の勝手で捨ててはならずその末期に責任があるため、魚住のことは甘やかしていたものだった。いまもであるならば、幸福のために整えているのならば、このときも魚住は仙道のペットではないだろうか。ただ少しばかり形を変えただけの話で、仙道は心地良い波打ちを覚えたのでこれが良いことだと判断した。犬を外で飼うこともあるという。猫に首輪のみ付けて自由に外へ出入りさせるともいう。いま魚住は首輪だけが着けられているのだ。なるほど、と仙道は納得した。3週間ののち、魚住は逃げ出しのではなかったのだ。いついかなるときも魚住は仙道のペットであったのだ。そうか、と仙道は呑み込んだ。出来るだけ家に置いてやりたいが、自由な、伸び伸びとした、躍動する魚住の体を眺めれば外での触れ合いも大切らしい。思い出したらでいいだろう、と仙道は結論付ける。ペットなるは飼い主に寄り添い生きるものであり、仙道にとって先の道は見えぬほど、思い出さずにいたところで魚住を外に出してやるのはたったの百年のことである。