登場直後のド捏造
男の目が開いたとき、その奥で像を結ぶものは一切なく暗闇だけが体を這い回るように存在していた。持ち上げた両腕はいやに重く、触れれば手首に何かを嵌められていた。おそらくは手枷だろう、つけられた鎖を探り当てると、この光のない場所をあてもなく彷徨うのだけは避けられたことに安堵の息を吐く。金属の擦れ合う音は響かず、男を捕らえる空間と同じく特殊なもので作り上げられているのだろう。ともかくはこの鎖を手繰り歩まねばならない、ここが何処なのか、男は知る必要があった。鎖を手に歩みながら、男はいまいちど己の確認をしようとして、途端に思考をつまづかせた。名前が思い出せない。他のことも、何もだ。ならば何か一つでも浮かぶものはないかと、苦々しい顔を作り眉をしかめてみせるも、欠片としてだめだ。今の状況を作るに値する記憶があるのかすら分からないのでは、この場所が何であるか予測すら立てられない。舌をはじき慣らし、強く足を踏み出した。変哲もなく男を包み続ける暗闇に飽いてくる頃、遠くに仄かな光を見いだしたと同時に、絢爛とした舞台で拍手を送る記憶がはじけた。幾重もの喝采で飛び抜けて目立てばというほどに強く手を打ち付けている。鎖を持ち直し、少しでも早くと光のもとへかけだした。いやに長く感じるほどを経て現れたそれは、蝋燭だった。木製の机の上で、炎を揺らして静かに佇んでいる。男は椅子に腰掛け、机へ手をついた。一つしかない引き出しを開け、中のものを出してゆく。数センチになる白紙の束と、インク瓶、革のケースの中にはペンが一本、赤いスカーフと、金属の——これはスカーフリングであろうか。結局、男にはなんの情報も与えられることはなかった。ペンを取り「何も分からない」と書き出す。過剰な曲線を画いて紙を染める文字さえ、どこのものであるのか判断できなかった。一挙に失望が到来し、とてつもない疲労が肩にのしかかる。ゆっくり穏やかに身をふるわせる炎を見つめながら、男はいつしか眠りについていた。/微かな香りが鼻孔をくすぐる。瞼をひらき、身を起こすと蝋燭は相変わらない姿でゆらめいていた。視線を動かす。香りのもとは一つのマグカップであった。傍にはクッキーが数枚いれられた小皿がある。おぞましさがこころを満たし、不愉快な寒さが背中をくすぐった。誰かいるのか。机の上のものを全て払い落として男は大きく声を上げた。炎が紙に燃え移るも気にはせず、ただ思いつく限りの罵りを言葉にして、叫ぶ。しかし、男の元へ返ってくるものは一つとしてなく、放たれた言葉だけが暗闇へと吸い込まれていった。紙を依り代に大きく身を翻らせた炎も消え、再び暗闇が隙間なく視界につめられた。男は大きく息を吐いて、鎖を持ち上げる。足取りは重い。暗闇を歩みながら思うのは、もう二度とあのようなものは現れないかもしれない、ということだ。息苦しさを紛らわせるようにシャツのボタンを外そうと手を伸ばし、指先が、柔らかい布に押し当たる。両手を使い布を手繰る。首に回された、少々長めの布だ。首もとには丸い金属のようなものがついている。蝋燭に照らされた、赤いスカーフとスカーフリングが過る。口の中が乾きだし、空気が湿って感じる。男の額に汗が浮かんだとき、生温いものがそこへ押し当てられた。悲鳴を上げて後ろを振り返れば、男の目に飛び込んだものは、蝋燭の明かりだった。先ほどと違い、引き出しのない机の上で静かに辺りを照らしている。机上にはいくつかものが置かれているようだが、男にはさきほど己が払い落としたものに違いないという予感があった。腹のうちが泥でも詰められたかみたく重くなる。稍あって、机の前に立った男は、先ほどと同じようなものが並べられているのを見て、更に腹のうちを重くした。違うものは紙の束が新しく用意されていたことと、スカーフとスカーフリングがないこと、マグカップを重しにして燃えた紙の切れ端が置かれていたことくらいだ。紙には角張った文字が書かれている。それをみとめたとき、男は鎖の先など存在しないのだと悟った。