「何故彼らは主へ背を向けられるのだろうか」父の声が、暗闇を追い払うよう光り続ける街灯りの中へと落ちていく。硝子玉のように光を反射して輝く瞳は、しかし昏さを失うことがない。「人々は、主が空へ開けた穴だけを信じている」「それは許されていい行為ではないよ」父の表情は苛烈なものだ。「ならばあなたが主の存在を思い出させればいい」間違いなく主の御手による救済であると。「私がこれから行うあらゆるを、あなたが主の名において妨げて、世界を救うといい」吹き上がった風が父の髪を巻き上げる。そうだね、羊を導くのが与えられた役目だ。と、父はかつて持ち合わせた感情を、すべてを捨てた姿で囁いた。羊。羊か。「だが牧場の世話を私はしないぞ」私の顔をみて、父は呆れたような、愚かさに苛立つような溜め息をついた。「ソロモン、まさかこんな時に、そんなものを世話する必要があると本気で思っているんじゃないだろうね」「まさか」ならいいんだ、そう言って次には、さてどうやって忘れ去られた主の加護を数多の人々へ示すべきかと考えている。父がこの姿になってから随分と経った。あの牧場はおそらくとうに荒れ果てて、羊達はみな餓え死に、腐りはて骨だけになっているのだろう。「いかなる時も、人は試練に備えるものだ。そこへあなたを転移させよう」「けれどお前の呪いが僕の身にあるのだろう?」お前のことはいずれ知れ渡る、そのとき僕が呪いを孕んでいるとしれたなら。「あなたは私がなんであるのかを忘れたのか」炎が満ちあふれ、地獄堕ちのものすべてを焼べ続けている。焼き払われようとする時間の直中に抗う人の後ろで、私を真っ直ぐに射貫く瞳は光り輝いている。あの日と同じ父は、だが確かに、私の呪いで出来ていた。
/
 此処はあらゆる希望の果てである。
「ソロモン」
 書庫に備え付けられている電光は弱々しく、室内は薄暗さに支配されていた。長い時を経た数々の本に囲まれて、灯したカンテラの傍で読書に耽っていると、静謐さを切り裂いて高く声が響き渡った。芽吹きの春が終わればやってくるのは夏だ、生まれたての瑞々しさをほこる緑のような陽気をたたえて再び声が谺する。また一枚、ページを捲り無言を返す。軽やかな足音は途切れることもなく、また、己の名を呼ぶ声もやむ様子はなかった。在りし日の父を召喚したとき、夏の若葉が風に揺れる音を聞いたと思い出す。父をこの場に呼ぶ気は、あまりなかった。必要ではなかったし、特別会いたいという思いも持っていなかったからだが、しかし、何を言うだろうという興味は少しばかり抱えていた。だから、呼ぶ気はあまりなかったのだ。結果として呼んでしまっているが。何れにせよ、この虚空で父が私を見やってからしたことは、齢を訊ねることだ。その姿はいくつのときだい、なんだって、そうか……僕のこれは、おい、もう一度聞くけどね、それ本当にいま言った年の体かい……ああ、神よ。それからお互い大差のない年齢であったにも関わらず、際立って目立つ体格差に神へ助けを求めてもいたか。安い神だとせせら笑ったところ、警告もなく石を投げられたが、僅かあの程度でゴリアテと同じく私を殺せるものだと考えたのだろうか。いや、あれは何も考えていなかったに違いない、完全なる反射だ。父、ダビデという男は神を蔑ろにする行為にあてて、暴力を振りかざしすぎていた。
「ああ、いたいた。お前ね、返事をしたらどうだい」近づく足音が目の前で止まり、やや不満さをにじませた声が降り掛かる。本を閉じ、表紙に縫い付けられた顔をそっと撫でる、苦悶に満ちた老人の顔を。その向こうで白磁が灯りにつつまれ、淡くきらめいている。すべてが柔らかな輪郭で形作られ、まるで争いなど関わったことがないとでも言いた気であった。「偉大なる父について思いを馳せることに熱中し過ぎたようだ」私の言葉に、眉をひそめると「はあ? 頭を石で打たれでもしたのかな」と額をしなやかな指先が弾いた。お前は嘘が下手だね、そう小さく笑う父を見るのは、何度目かのことであり、しかし生前ではついぞ目にかかることが出来なかったものだ。震える火が影を揺らしている。幾重の影が織り込まれてゆくのを傍目に、呪いの名を口にし害しかなさぬ我が目を真っ直ぐに見抜く父へ、なぜここへきたのかを問いかけた。
「羊がね」
 続けられる言葉を追うように、そっと目を逸らす。
 この眼孔に災いの核が隙間なくはまってから随分と久しい。無差別に厄災を振り掛けるものではないのだが、どうやら父に対してだけは別なようで、私の目があのあたたかな男を捉えると、即座に呪いが薄くベールの如くに身を包み込む。おかしな話で、父へ特別なものを抱いているわけではなかったが、しかしどうか、これではまるで私が恨んでいるかのようだ。逃がす気はないのだと、父の霊核への道を探る瘴気はいやに執拗である。それゆえ、目に捉えないようしているのだが、いかんせん父は相手と目を合わせて話す男だった。そして必ず、私の名を呼ぶ。「だいぶ育ったから、お前にもみてほしくなったんだ、ソロモン」容易く呼ぶ。なにも、この意図せず蝕む呪いで苦しむ父を見たいというわけでもない、やるなとまでは言わないが抑えてくれと伝えたが、主の加護があると押し通された。微塵も疑うことのない姿勢は、しかし正しいものであった。
「夢みたいだよ、また羊飼いになれるなんて」
 長い道を連れたち歩む。心底楽しいのだと輝く目がまた私を見た。真実のことである、父は争いなど好んでおらず、おそらくは王にすらなりたいと思ったことはないのだろう。だが主のために争い、主のため王となり、今こうして何を背負うでもなく穏やかに暮らすさまを捨てたのだ。随分と、あわれな姿ではないか。亡き夢の中を歩む足は止まることはない、その最中でも、父は当然のように主を信じ敬っているのだ。彼はこうして羊飼いとなれたのも、主の御手によるものだと思っている。私が世界を切り裂いて、誂えた箱庭を、主の采配にしか捉えていないのだ。いっそ愚鈍ともいえる信仰だからこそ、加護は途切れることがないのだろう。穏やかな日差しに包まれる姿は争いのない空間に目立つことなくとけ込み、間違いは一つとしてない風景が完成している。それに反して我が身はどうであろうか、躊躇うことなく言えるが、私はこの場所において異物でしかない。父が平和にあるとき、私が並び立つことは出来ないのだ。とんだ虚構ではないか。
 牧場についても、日の傾きは一切変わることがないままだった。「太陽も動いた方がいいかもしれないね」と父は言う。ああ、と。そうしておこう。この平和な世界では目に見える時の経過がない。父が「夜にしてくれ」と頼んだときに初めて、太陽を溶かして月を空へと掲げていたからだ。こうしたところが、変なところでぬけていると父に言わしめたのであろうか。瞬いた後、息を吹き込まれた太陽の日差しを、吹き抜けた風に押し出された雲が覆い隠した。思えばなにも動かなかったなあと呟いた父も、大概ぬけている。こうして幾許か血の繋がりを感じる瞬間は嫌いではない。
 駆け出した父は、柵を軽々と飛び越えて草を食んでいた羊の元へとまたたくまに辿り着く。軽く柔らかい白い毛を撫でてから、片手を振り私に呼びかける。ソロモン。何一つとして混じりけのない、純粋な呼びかけだ。手を挙げそれに答えてから踵を返す、この世界から早く抜け出さねばならない、強い感覚が体を支配していた。不満げな声がまた私の名へと流し込まれ、関知することのできない精神の裏側から不可解なものが抜け出ていく。呪いだ。私はやっと、主の加護下にある父へ必死に追い縋る呪いの正体を知った。虚構こそがそれである。
 一歩、暗闇を進むだけでいい。目の前に広がる砂の荒野もまた、時を得る前の父の世界と同じく、風もふかずにただ静止して横たわっていた。脆い砂を崩して歩みを進める。ここに太陽はない。だが、常に昼間の明るさと空で囲われていた。足の形にそり沈む砂原が与えるものは、粒子が擦れ合う感触と音だけで、青草のものから随分と遠い。穏やかなものすべては追放されている。やがて崩れかけた神殿が姿を現した。乾いた壁についたヒビをなぞり、中へと入る。打ち壊された祭壇だけが、神殿の中にある唯一だった。散らばった欠片を一つ手にし、なんとなしに観察する。といっても変哲もない石の欠片だ、何かがあるというわけでもなかった。だがこの祭壇と欠片こそが、私と父の正しい在り方に違いがない。私たちはおそらく、忘れ去られた砂漠の神殿のようにあるべきなのだ。しかし、父の世界をどうして壊せようか。私のいる砂漠に、どうして招く事ができようか、父はあの場所で、なにを傷つけるわけでもなく羊飼いとしているべきだ。私がかなしみの中にある時こそ、父は喜びの中にいる。
 神殿を出て、砂山に倒れ込んだとき、私の体は薄暗い書庫の中にあった。長椅子にもたれ掛かり、天井まで届く棚を視界に入れている。傍らの小さな机の上には、カンテラと書物があり、おそらくは無意識に求めたものであろう。手にした本は、見知った、しかし初めて読むものだった。灯火が緩慢な疲労を慰め寄り添うように小さく震えている。文字のあとをいくら追いかけたところで、私の身の内にあるものは、堕落でも、救済でも、審判でもなく、ただ戻ることができないと思っていた父の世界だった。私の真理の背後に、父の真理がそっと姿を現している。羊を撫でる父が笑いかけるあの一瞬が、父の救済が、私も救うという顔で静止している。そんなものがあるはずもなかった。仮初めすら許してはならない。風が体を通り過ぎた感触を、青草を踏みしめた感触を、父の息づかいが真横で響いた感触を、どうして薄暗いこの場所で思い出さねばならない。行われることのなかった手のひらの温度が、本物としてあるようにふいに灯った。父の手のひらの温度だ。私はそれを知らないが、たしかに生温いそれはあの白い手がもつものと等しい。
「ソロモン」
 薄暗い通路の先に立ち止まる父が私の名を呼んだ。「そんなに続きが気になっていたのかい」灯火の横では、薄闇で立ち尽くす父の姿を明瞭にすることが出来なかった。小さく咳き込む音が響く。「埃っぽいな」
「そんなことはない」
「まあいいや、邪魔して悪かったね。読み終わったらまた話そう」
 立ち去る姿はすぐさまに見えなくなった。追いかけてきたのだろうか。手のひらにわだかまる熱が、温度を僅かに上げている。
 それから私がみた情景は、堪え難い、崩れた人の光明であった。呼吸と浮遊を繰り返して、ただ茫然と胸を貫く寒々しい絶望の針を感じていた。あたたかな日差しの中、草原に座り込み羊を群れを眺める父を見つめている。白い手が私の鬱蒼とした暗闇に触れて引くと、細くなだらかな体が躊躇いなくこの身を受け入れた。「長閑でいいね」私の心は絹で包まれたように、しずかになだめられ続け、平和の眠りへ誘われようとしていた。「眠るといい、帰るころには起こしてあげよう」重い瞼の隙間から覗く草原には、もう羊の群れはいなかった。父のしとやかな指先が髪を梳いて撫でてくれるごと、空気が乾いてゆくのを肌にする。暗闇では触れる父の体だけがすべてであった。閉じられた瞼の外がどうなっているかを、知りにいこうとは、心地よさを前にして到底できはしなかった。
「この前と違う本じゃないか!」高々と響いた声は反響して空気を振るわせている。唇を尖らせて「なんだい」とつぶやき、じっとりとこちらを見遣る父は有り体にいえば拗ねていた。伸ばされた手が本を掴み取り上げて、机へと乱雑に置く。「お前ねえ、」肉付きのいい手のひらが頬を包んで持ち上げる、眼前に迫った父の幼い顔は不機嫌さを隠しもせずに顰められている。「この、なんだい、この」こねくり回すように動かされては煩わしくて仕方がないものだが、やめろといってやめる相手でもない、ならばと腰を引き寄せ膝の上に座らせると、小さく声を上げあっさりと手を離した。柔らかい肉で作られた体だが、おどろくほどに軽い。
「父親が丹精込めている牧場をそんなにみたくないのかい」
「私より可愛がられている羊を見るのは気分が悪くてな」
「思ってもいないくせに」
 再び頬に触れた手が肌を撫で上げる。髪に潜り込んだ指は羊の毛並みを確かめるそれと同じなのであろうか。「私は羊ではない」髪は白いが、と。父は気がぬけた笑いをこぼして「知っているよ」と言った。ただ黙って私の髪を梳く父は、先ほどまでの表情をどこへ捨てたのか、すっかりと穏やかな笑みを浮かべている。私がかつて見た父は、いつも深いシワを刻んで苦しさを滲ませていた。この手をとり、玉座を譲るときも、厳父とし堂々たる姿勢で、しかし苦渋を振り払おうと必死な面立ちをしていた。それこそが父そのものだと、こうして幼い日の父をみるまで、道行く民と同じだと考えもしなかった。「あなたはいま幸せなのだろうか」仄かな熱を発する手は動きを止めて、眩くきらめいた瞳が私を注視する。父の瞳は澄み切りあおく、やはり私はその形あらゆるに夏の若葉を思い出すのだ。生命そのものを強く湛える姿は、栄光の季節だ。
「お前が僕の牧場にきてくれたなら、幸せだと言い切ってしまえるだろうね」
「なにがどうしても見せたいようだ」
「うん、それもそうだけど、僕としては息子と一緒にあそこにいるっていうのが大事なんだ」
 僅かに赤らんだ顔を逸らすことなく、平和を分かち合おうと口にする。「そうか」できるものなら。
「刈り入れの後でなら、自慢の羊を共にみてやろう」
「意地の悪いことをいうね、誰に似たんだか」
「あなたか、あなたの愛するものだろうな」
 目が瞠られるも、すぐさまに形はやわらかに崩された。父の、どこまでも深くうつくしい笑みが綻んで、私の名はあたかも穏やかな陽射しそれであるかのように音がこぼれおちた。「ソロモン」この呪いの名が、なんの災いもないのだというような清らかな響きで。
「いとしい子」
 私を抱きしめる父を、なんとしてでも私から守らねば。

 父が倒れたのはそれほど月日の経たぬうちであった。
 敷布に広がる髪の色が、知るものよりもくすんでいると気付いたとき、何故だという気持ちだけが強かった。主による加護は父を護っていたのではなかったか。それがどうして我が身の呪詛が、このあたたかな体の中を張り巡っているのだろう。霊核に根を伸ばした呪いが、父の望んだ平和を貪ろうとしている。なぜ主は、私の望みから父を護らない、手放そうとしなかったからこそ、この男は私の元へこなかったというのに。
「ソロモン、面倒をかけるね」
 体のあらゆる箇所に走った亀裂から、災いは滲み出ている。瞳のあおさを暗く染め上げて、あの輝かしい草木の色が喪われつつあった。指先に触れ、絡み付いた手のやわらかさだけが変わらぬものだ。覆い隠せぬほどの苦痛を孕んだ父は、それがどこからきたものか分かっているというのに、それでもなお私の名を口にする。喉と、舌と、唇とで、己の魂に呪いを敷く行為を繰り返し続ける。禍の起源を覗きこもうと、私の眼孔に収まった災禍を見つめ続ける。弱々しく引っかかるだけとなった指を、握り返して額に押し付けた。だが私の望みで満たされつつある父の体は、触れた肌からまた呪いを引きずり込もうと脈動している。
「あと少しで刈り入れだったんだ」
 草原で手を振る父の姿が鮮やかに思い起こされる、時間を与えられた涼やかな風が肌を撫でるあの場所で、羊に囲まれた父が私に笑いかけたあの時を。「まだ遅くはない」もはや何もかもが手遅れだ。私の望む父は、あの牧場に足を踏み入れることはないだろう。
「あなたの主は、」
 なぜ、と幾度と反復した言葉を口にする。何故だ。もはやそれしかない、主の威光とはそれまでなのか。私という存在から、出来うる限り父を遠ざけることが出来なかった。万全を期するのならば、主の加護があろうとも、父とは接触するべきではなかったと十分に理解している。だが、あまりではないか。父のいう加護があるのならば、そもそも私の呪いなど、存在しないからだ。名だけの私と違い、正真正銘に主から愛され、主の為に生きた父だからこそ、その膝元へと召し上げられたのではなかったのか。
「ソロモン」
「私の名を呼ぶな。口から出るものこそ人を穢すと知っているだろう」
「ソロモン、お前は勘違いをしているんだよ」
 僕を見るんだ。父の声は震えることなく吐き出される。私はすでにどうしようもなく恐ろしい気持ちに支配されていた、おぞましいものだ、父を憐れむ傍らで私の望みが叶うそれを手放しで確かに歓んでいるそれだ。父こそ、いま、私に対して思い違いをしている。私はあなたに対して微塵も後悔をしていない、主への怒りを抱きはしも、精神の形は幸福を象っているのだ。私の掌から抜け出した指が、うつくしく笑んだ日のように髪を撫で上げた。「わたしは、羊ではない」「わかってるよ、お前は僕の息子だ。できた息子だ」細められた瞳から濁った呪いが流れおちる。「だからもっと甘やかしてやりたかった」「十分だ。そもそも私は、あなたと同じ場所に葬られたそれだけで満足している」「それはさあ、僕がやったことじゃないだろう」わかってないなと苦々しく笑う父の、喉の奥から這い出た血が布を汚している。もう限界なのだろう。こうして、父が、混じりけない精神のまま父でいれるのは。この厳父の精神を弔わねばならない、その死の瞬間を、私は見届けなければならない。また、一度、私の名を口にすると、父はまっすぐと射抜く瞳をもって私を貫いた。
「いいかい、盲人の目が見えることはなく、足なえのものも歩きはしない」
 この時の我が心に降り掛かった、愚かさという重しは、知恵を授かってから久しい感覚であった。ああ、真にその通り。主は父を愛して、手放しはしなかった。
「死んだものは、死んだままだ」
 父は死の末に主のもとへ召され、捨て置かれた夢だけが父の形をとり、私と臓腑の道を歩んでいる。