fgo-21

 パラケルススの胸は忙しなく動いている。それでも整わない呼吸は音すら荒削りなものだ。視点を定める気もなく虚ろなままのパラケルススを今一度じっと見つめてからアーラシュは立ち上がった。キッチンへ向かうと棚を開け茶葉を取り出す。ケトルを火にかけて底をなめ広がる炎の形を眺めた。寝室のドアに目をやってからまた火へと視線を戻す。冷え込んだ空気をかき分けて湯気が登り立つ。アーラシュは耳を澄ませた。水が茹だる音。己の呼吸。片耳を軽く抑える。良い声だった、とアーラシュは言った。それから笑ってみせた。本当に良い声だ、また聞きたいもんだな。湯気が立ち上る。
 背に回された腕がそのままパラケルススの体を起き上がらせた。閉じかけていた目蓋が僅かに持ち上がりまた閉じられようとする。ほら、紅茶だ。唇に陶器が押し付けられると緩く頭を振って暖かな温度から逃れようとした。湿ったシーツに倒れ身を捩りアーラシュから距離を置こうとパラケルススはもがく。視界を隠す長い髪を指で払い額を二度ほど爪先で叩く。虚ろと溶けかけた目が弱弱しくアーラシュを見た。カップを傾け一口分を飲む。俺は平気だ。そうしてもう一度パラケルススの身を起き上がらせて口元へとカップを持っていく。ゆっくりと傾けると唇の形に沿って赤い海岸が作られる。少ししてから唇はやわやわと開いて紅茶を啜った。飲み干そうとする頃には立ち上っていた湯気はすっかり姿を消している。パラケルススを横たわらせてからキッチンへと向かいシンクでカップを軽く洗う。カップの縁を指で撫でる。ラックへ置いてから再び寝室へと戻った。ベッドの上でパラケルススは震えていた。深夜とも早朝とも言えない暗がりに溶け込む細い輪郭に手を触れさせる。冷えきった体は僅かに湿っていた。どうした。アーラシュの問いに応えることなくパラケルススはただ震えている。どうした、と二度目の問いをアーラシュは投げかけた。さむい。離れようとしたアーラシュの手を追いかけて頼りない体は身じろいだ。腕が持ち上がるとアーラシュの頬から首を撫で引き寄せようと絡み付いてきた。それに応えながら手の平で胴の形を確かめる。うすべったい体の上へ寝そべるとうめき声が上がった。二度目の声は同じものではなかった。
 古びたモーテルで停められた車から降りると砂埃が体に叩き付けられた。アーラシュは静まり返ったモーテルを見上げながら煙草を口にする。横から差し出された火に焦がして煙を吸い込む。いい天気だ、とアーラシュは投げやりに言った。こちらです。案内された部屋は223のプレートがドアに打ち付けられていた。アルミ製のそれは錆び付いている。部屋にはいるとまず血の臭いがした。バスルームを通り過ぎ奥へ進む。ベッドの上には裸の女が死んでいた。部屋を見回す。椅子に折り畳まれた服が置かれテレビには下着がかけられていた。暴れた様子はなかった。女は首を切られていて流れ出た血が臭いの原因だった。落ちていた注射器を足先で軽く小突く。中に入っている蜜色の液体が揺れた。窓へと向かい締め切られていたカーテンを開ける。日差しが部屋を暴きだすと途端にすべてがちんけなセットになった。おまえ映画観るか。いえ、そんなには、と部下が硬い声で言う。俺もさほど観ないがね。それからバスルームへ足を運んだ。ビニールカーテンは開けられていてバスタブで顔を腫らした男はアーラシュを見ると体を動かした。銃を突きつけている部下が動くなと更に強くこめかみへ銃を押し付けた。男は泣きながらアーラシュへ手違いだと説明を始めた。眉を下げてアーラシュは話を聞いた。
 そいつは大変だったな。それで金はどうした。
 え? いや。それで俺は騙されただけでアンタを裏切る気はなくって。
 アーラシュはズボンの縁から拳銃を引き抜いて男の足を撃った。勢いの強いシャワーみたく悲鳴と血が流れ出た。二度も言わせるな。男は嗚咽をもらしながらアーラシュを見やる。アーラシュは拳銃をまたズボンの縁へ戻してからビニールカーテンを少し引いて男の姿を視界から隠した。男の叫び声は僅かの間で終った。ビニールカーテンは飛び散った血の勢いで少し揺れた。男を打ち殺した部下の襟にも血が飛んでいた。悪いな、とアーラシュは言った。新しいの買ってやるよ。肩を叩いて笑う。
 金はどうします。
 実のところ在処は分かってるんだ。まあ人助けだよな。たまにゃ善行でもして媚を売ろうと思ったんだがね。
 うまくいかんもんだ。アーラシュの言葉に首を傾げる。媚を売るですか、と部下が不思議そうな声で聞く。昔は英雄になりたがったもんだ、とアーラシュは笑った。それからモーテルを燃やしておけよと付け足した。別の部屋から慌てて出てきた若い男が発砲音と共に倒れ込んだ。車に乗り込んでアーラシュは深く息を吐いた。これじゃ英雄からはほど遠いなあ。その言葉にミラーに映った運転手が苦笑いをしている。その奥では黒い煙を立ち上らせてモーテルが燃えていた。
 男は白い顔を殊更に白くして縮こまっている。机に置かれたコーヒーには手が付けられていない。それ飲んでいいんだぜ。アーラシュの言葉に大きく肩を振るわせると口をもごもごと動かしてから更に顔を俯けた。男の後ろにある水槽に目をやった。水草しか入っていない水槽は静かに窓からの光を反射している。僅かに男の姿が映り込んでいた。窓を見て日差しが高いことを確認してからまた男を見る。アーラシュは後ろに立つ部下に部屋を出て行くよう命じた。頭を下げ部屋を出て行くときのドアの音にすら男は肩を震えさせた。部屋には二人だけとなった。男もアーラシュも喋らないまま数分が経つ。どこからともなく一枚のコインを出すとアーラシュは賭けをしようと言った。アーラシュの言葉に男は僅かに視線を持ち上げる。お前から先に選べ。男は見えている面を戸惑いがちに答えた。表。指で弾き上げて手の甲に落ちたコインを閉じ込める。このコイン男の顔が彫られていて、そいつを殺すみたく傷がついてたろう。押さえ付けていた手をゆっくりと引きはがす。俺たちの間では裏切られた男のコインだなんて言って囃し立てている。コインは表だった。よし買ってやろうか、とアーラシュは言った。男は少しほうけてから強く両手を握りしめる。首を振るなよ、そうしたら俺がお前をどうしなきゃならなくなるか分かる筈だ。表を向けているコインを机に置く。お前は賭けに勝てたんだ。アーラシュはいやに甘い声で続けた。
 買ってやるよ。
 わ……私は。わたしは……。
 あんたの後ろに水槽が置いてあるんだ。部屋に入ってくるとき見えただろ。
 えっ。ああ。その。
 そこに何があるか分かるよな。
 ……魚、でしょうか。
 アーラシュはゆったりとソファに背を預けると男の襟ぐりから覗く浮き上がった細い骨を見た。指を組み親指で人差し指の関節を撫でる。首を傾けた。男の目は机の上にあるコーヒーの中へ落とされている。女たちの好む蜜色の瞳をしていた。ドアをノックする音に応えると部下が姿を見せて頭を下げる。準備ができました、いつでも材料に出来ます。それからちらと男を見た。その視線にますます顔色を悪くして男は短く言葉を吐いた。単語にも満たない声だった。アーラシュはそうかと返して立ち上がる。男が弾かれたように顔を上げた。女。女に似せられた顔だった。アーラシュは男の持つ顔と似た女たちを何度も見てきていた。売ってもよさそうだ。薄い唇が何度も開いて閉じる。やがて水底の瞳がアーラシュを映し込むと悲鳴を上げるのと同じに言葉を返した。水槽、とアーラシュが言う。男は横を向き水槽を見た。何が見える。男は掠れた声で水草と答えた。
 その日の夜にアーラシュは男を食い荒らした。男にとって唯一の領地で。男の勢力圏で。散らばった紙の束を踏みにじって男を犯した。狭い部屋の中で垂れ下がった電球がじりじりと音を立てている。アーラシュの体から沸き上がり落ちた汗が男の体にぶつかって線を引いた。好きなだけ続けていいんだ。男の腰にはすっかりアーラシュの手の痕が染み付いていた。なんだったら金も出してやるさ。声もなく静かに泣く男に身を擦り寄せた。パラケルスス。男はただただ耐えている。
 長い黒髪の男は口元を歪めてアーラシュを値踏みした。極東からの客人で何かと便利だと紹介されて来ていた。跳ね上がった青毛の男がアーラシュの肩を抱いていいもんやろうかと渡してきたものはまさに絶品だったからだ。男は鼻で笑うと棚から引きずり出した鞄をカウンターへと置いた。金具を外して中身を晒す。おぬしが欲しいのはこれじゃろ、と強い訛りで声に出す。アーラシュは頷いた。
 使いすぎると廃人になるぞ。
 いいんだよ。それで。
 おお、こわい。おぬしそんな男じゃったか。
 男の言葉にアーラシュは目を向けた。片手は腰の辺りで何かに手をそえる形で浮いている。アーラシュはゆっくりと大きく笑った。少し顎を引いて視線だけを上へと向ける。そうさ俺はずっとこうだ。紙袋を手に部屋を出る。通路ですれ違った男は一瞬だけ目を合わせてあとは興味無さげに通り過ぎていった。車に乗り込むと口数の少ない運転手が珍しく話しかけてきた。
 そんなにいいんですか。
 こいつか。
 ええ。気になって。
 よ過ぎるくらいだな。けどなあ。
 なにかあるんですか?
 いや。お前さんあそこの極東人に頼ろうっていうんなら気をつけたほうがいいぜ。
 へえ。
 頭蓋骨で酒を呑むのが好きなやつなんだ。
 まさか。冗談でしょう?
 黙り笑顔をみせるアーラシュをバックミラーで見やると運転手は肩を竦めた。
 指先で掬ったジェルを塗り籠めると男は小さく震えた。大きく音を立てる度に肩が揺れて体全体を強ばらせている。アーラシュへ縋り付くように撓垂れると力の抜けるままに腰が落ちて一層にアーラシュの指を招く形になった。ねだっているみたいだといつかに言ったとき男はさっと顔を赤らめていた。抑えた声が肩口で鳴っている。やがてシーツを色濃く濡らす頃には男は縋り付くことすらままならなくなっていく。アーラシュはただ呼吸をするだけの男を見た。それから身を潜らせてる。男の喉が仰け反って嬌声が上がった。夜光時計だけが光源になる部屋は暗闇が降り積もっていたがそれでも男の白い肌はアーラシュの目にぼんやりと浮かび上がっていた。冷えた体の輪郭はずっとアーラシュの目に浮かんでいる。お前の声はいいな、とアーラシュは言った。俺の鼓膜を引っ掻いてずっと傷を残してくれる。身を屈めて鼻先を緩く噛む。男は涙をためたまま口を開く。たすけて。
 インスタントのホットコーヒーを口にすると強い酸味が口に広がった。不味いと鋭い犬歯を覗かせて男が不満げな声を上げる。
 それよりアンタほんとにアレでいいのか。
 なにが。
 これまでずっと拘ってたのによ。
 ああ。アーラシュはベッドに腰掛けると足元の死体に足を掛けた。ナイトテーブルに置かれたリモコンを手に取ってテレビの電源をつける。警察とマフィアの銃撃戦が映し出された。音はない。
 いつまでも子どもってわけにもいかないだろ。俺も大人になったんだよ。
 なぁにが大人だ。性質わりぃガキになっただけじゃねぇか。
 妥協と言ってほしいもんだ。
 男は吐き捨てるように笑ってから椅子に腰掛ける。胸ポケットから両切りの煙草を出して火をつけた。煙が薄く部屋に広がる。ブラインドから差し込んだ光が煙の姿をより希薄にさせている。反射して光るものは舞い上がった埃くらいだった。
 いいんだよ。アーラシュは小さく声を出した。あの冷たい手が傍にあるならなんだっていいんだ。男はすぐには何も言わなかった。煙草が吸い終わると額に穴を開けて血を泡立たせる女の口へ吸い殻を放り込む。そういうのは際限ないぜ。男はアーラシュを見ると目元を歪めて笑った。でもアンタ自分で手に入るものを狭めてんだ。アーラシュは答えなかった。ただ黙って死体から流れた血溜まりを見つめ続けていた。
 肩についた雪を払い落としてドアを開けた。暖かな空気が溢れ出るので手早くドアを閉める。鍵をかけチェーンを降ろした。ただいま。リビングのソファにパラケルススは横たわっていた。薄手のシャツが体の脆弱さをかたどる。適温に設定されている部屋はいやに生温い。アーラシュはパラケルススの傍へ寄ると体を抱き上げた。冬の空気を吸い込んだ体に驚いて目を開ける。より強く抱きしめると逃げ出そうともがき始めていた。声は言葉になることがない。アーラシュは笑って細い体ごと床へ寝転がる。毛の長いカーペットはパラケルススのお気に入りだった。
 せんせい。
 アーラシュの言葉にパラケルススは小さく身じろいだ。溶けきった世界の中にアーラシュの姿が映り込む。
 そうだ。渡したいものがあるんだ。
 身を起こして着たままのコートの懐へ手を潜らせる。取り出した箱をパラケルススは見つめている。黒く艶やかな細長い箱を開けると銀のチェーンに通されたコインがそこにはあった。思い出すだろう、とアーラシュは笑う。横たわったままのパラケルススを座らせるとネックレスを首へとかけた。首を傾げてパラケルススはチェーンの通ったコインを手にする。
 食いもんじゃないぜ。
 コインの端に歯を立てるパラケルススを撫でながら手を掴みゆっくりと引きはがす。薄く開いた唇にアーラシュは口付けた。指先から滑り落ちたコインが揺れる。どちらも傷付けられた男が彫られていた。