帝一-2

 伸び生える草の合間から、太陽に照らされる水面の光が飛び込んだ。また汚すようにして一点の影が。水面に降り立ち羽ばたく鷹の姿だ。大きく揺れ飛び上がる水面から羽先が覗く。帝一は地に押さえつけられ、犯されながらその光景をぼんやりと眺めていた。いっそ無様とも言えるほどの抵抗もしてみせたが、結局は無駄だった。包帯の巻かれている指先を強く握られると、そこでやっと帝一は口から呻いた声を漏らした。片腕が腹に回り込んで、高々と腰を上げられる。隙間を埋めようと体を寄せた弾が何かを言っていたが、帝一は拾ったはずの言葉を脳で結ぶことができず、反応すらまともに返さずにただ水辺だけを見ていた。弾の荒く刻まれた息が首筋を滑り落ちていく。執拗に水面から離れなかった鷹が、ひときわ大きく羽を動かして浮き上がる。水滴を滴らせて現れてゆく爪先が、一回り小さな鳥を掴んでいた。重力に従い仰け反る姿はおそらく生きてはいないように思える。ああ、と帝一は目を細めた。あれは、僕だ。
 赤場帝一にとって、大鷹弾は比較的御し易い人間であった。正道を歩む姿勢をみせ、彼の中と違う道だとわかれば、その場で適当に理由をつけて反省した意を伝える。簡略すればそれだけのことで、大鷹弾は驚くほど赤場帝一にとって都合がいい男に成り下がったのだ。時折、こんなに素直で大丈夫なのだろうかと、いずれ騙されかねないその性根に不安は覚えはしも、帝一の歩みに実に都合がいいそれを指摘しようとは、到底思わなかった。帝一は、弾のもつ情の深さに付け入る形で鳴らし続けていた声帯を止める。それからそっと目の前の鍵盤を指で撫でて見せた。側板にもたれるようにして、帝一の話を聞いていた弾は数回瞬いてから、小さく鼻を鳴らし髪を無造作にかきあげる。帝一は申し訳なさそうな笑いを作ってみせた。弾が眉を潜めて黙り込む。なんであれ、と帝一は声を再び上げた。「あの時、僕は本当に、久しぶりにピアノを弾いた。それがお前を祝うための演奏であったことは、僕にとって、すごく、いいことだった」無造作にひとつ、指で鍵盤を押し込める。跳ね上がった音が教室に響いた。争いの起きない場所だったと帝一は小さく呟いて、弾の様子を伺った。友人思いの男はいやに苦しそうな顔を浮かべている。念のためもうひと押ししておくか、と帝一は思案する。大鷹弾は、いやに赤場帝一の友人であることにこだわっていた。友人といえば、心情の吐露だ、いままで誰にも話したことがない、こんなことをいうのははじめてだ、そういった言葉の数々が、いかに相手を離れさせないのか帝一はよくよく理解している。残念ながら帝一がピアノを弾かなかった日々は、ご丁寧に飾って全校生徒に示してみせた後ではあったが、しかし、あの就任式で弾いたピアノに関しては別だ。
「僕はいつだって、弾いてしまったらまた争いが起きるのではないかと不安だった」
 開け放たれた窓から風が入り込んで、帝一の皮膚を撫でていった。窓へ目を向け、揺れるカーテンの放つ淡い光を見つめる。弾の視線が、帝一に向けられたことを感じ取る。帝一は笑いそうになる顔に力を込めて耐える。引きつった顔になっていることだろうが、勝手にどうとでも解釈するだろう。鍵盤に乗せていた手を握る。
「弾いてしまえばなんてことはない。そして僕は弾き終わるたびに後悔した、争いが起こると。それから……」
 それから、と。これは、本心だった。
「ピアノを弾いているときに、時間が止まればいいのに」
 ばかばかしい気持ちが僅かに湧き上がった。帝一は吐き捨てるように笑ってから、弾へと向き直った。普段の笑みも、先ほどまでの苦い顔もなく、そこにあったのは観察者の目であった。「なんだよ」帝一は、何も置かれていない譜面台へ目を写す。もう思っちゃいないさ。その言葉に、短い返事があった。これらの言葉の積み上げは、大鷹弾に、赤場帝一が裏切るわけない、そう思わせる割合を大きくしたことだろう。なにせ帝一が、過去に抱いた苦しみを、もう過ぎ去ったものだと自覚させたのは、大鷹弾に頼まれて弾いたあの就任式によるものだからだ。実際は半分半分なところではある。帝一は座り直し、姿勢を正した。上げた腕を水平に、指先を鍵盤に添える。
「どうせだ、もう一曲、聴いていってくれ」
 弾は答えない。もとより弾きたいから弾くのだ、帝一は答えを待たずに指を滑らせた。指先を沈めるたびに音が響く。目を閉じ、心臓から巡る感情に体を任せた。踊るように、奔流に身を任せて。「俺は」ピアノは帝一をすっかりと包み込んで、帝一の望み通りの空間を作り出す。楽しい。「俺はお前を」楽しい! 帝一の心はあっという間に現実から引き剥がされ、ただただピアノを弾く、それだけで満たされている。ずっとこうしていたい、そんな気持ちすらかき消えて、帝一は鍵盤に指を躍らせ続ける。意思もなにもなかった。帝一はいま、ある種の純粋な事象としてそこにあった。ピアノを弾いている、ピアノを「助けてやりたい」
 添え木と共に巻かれた包帯を眺める。帝一の両の手はすっかりと巻いた包帯で丸みを帯びて、何もできなくなっていた。隣では二つの鞄をまとめて持った弾がいる。あ、と声が上がった。帝一の体が僅かにこわばる。待ってて、と弾は言うと人ごみの中へ消えていった。所在無く立ち尽くして、帝一は辺りを見渡した。雑多だ。通り過ぎる人々が時折、帝一の痛々しい両手をちらりと見てゆく。帝一もその視線に習い、改めて己の手を見た。肺に穴が開けられたように呼吸がうまくできなくなりそうだった。
 蜃気楼みたく浮かぶのは、己の指を食いつぶす、黒黒のした鍵盤蓋だ。帝一は何が起こったのか全くわからなかった。木目のぶつかり合う大きな音に混じって、鈍く生々しい音がしたのだ。閉じられた鍵盤蓋に、呆けた己の顔が写っている。それから鍵盤を鳴らしていた指がそのままに、潰されているのだと気づいて、やっと、帝一は叫んだ。痛みと混乱だった。
「帝一」
 戻ってきた弾の顔を帝一は見なかった。差し出されたアイスクリームを訝しむ。ここの美味いんだ、と続いた言葉に帝一の眉は跳ね上がった。
「……不良だぞ」
「いいから」
 押し付けられたクリームが唇の隙間から滲み出る。帝一は諦め口を開いて、円球へとかじりついた。
「美味いだろ」
「まあまあ、だ」
 帝一の喉が動いたのを見ると、弾は歩みを再開した。帝一も後に続く。歩みの数に従って人の姿が消えていき、やがて帝一は土手を歩いていた。高く伸びる草をみて、手入れがされていないのだなと思いながら、静かに流れる川を見た。弾はすっかりアイスを食べ終えて、包み紙を無雑作にポケットの中へと押し込んでいる。どこへ向かっているのか、帝一にはわからなかった。しかし今の帝一に、以前と同じように弾へ言葉を投げかけることは到底できなかった。果たして本当に感じているのかはわからないが、痛む指先をじっとみつめる、と、帝一の体は立ち止まっていた弾にぶつかった。見上げた顔は、帝一を伺っている様子だ。しまった、と帝一が思うよりも早く、弾の手は薄い肩を押し込んで土手へとその体を倒し込んだ。手をかばうようにして体を丸めた帝一は止まることなく転げ落ち、高水敷へと落ちてようやく体の力を抜くことができた。土と草とにまみれ呻いていると、いつのまに降りたのやら弾の腕が伸びて制服の襟首を掴んだ。息が詰まる。帝一が足をばたつかせるのを無視し、いっとう背の高い草の中まで引きずっていく。手を離され、まともな呼吸を取り戻した帝一は咳き込みながら弾を見た。その手が伸ばされると、帝一は咄嗟に体をひねり、地に伏すようにして手を抱き込んだ。掠めた弾の手がゆっくりと背中に押し付けられ、少しづつ腰までおりていく。弾、と帝一は呻いた。それはなけなしの望みでもあった。腰にやった手を腹まで回すと、弾はさっと帝一のベルトを外して、ズボンを脱がせた。こんな場所でと帝一は声を荒げた。弾の手は止まらずに、結局帝一は繰り返されてきたことをまた受け止めるしかなかった。
 弾の手が、隠していた帝一の手まで伸びて強く握りしめる。骨の軋む音と共に、噛み締められていた唇が解けて声が漏れる。伏せる土を濡らしながら、帝一は小さな悲鳴を途切れ途切れに発した。「お前が俺に教えてくれたんだ」帝一の体を暴きながら、弾はゆっくりと言葉を紡いだ。もっと奥まで暴けるはずだと腰を動かして、容赦なく帝一の肉の形を変えて、狭っ苦しい骨盤を押し広げていく。「全部、帝一が教えてくれた、ことなんだ」帝一のうなじへと唇を押し付けて、弾は唸り声を上げた。それから尻を掲げて弾を受け入れ続ける帝一をまじまじと見つめ、路地裏で見かけた犬の交尾を思い出した。
「ワン!」
 帝一の耳に飛び込んだのは、弾の鳴き声、といえばいいのか、声であった。鷹が飛び立ち何もなくなった水面から意識を掬い上げられて、何事かと己を犯す男を見る。弾はゆったりと笑みを作って、もう一度、ワン、と声を上げる。弾によって握られていた手が離されて、代わりに掴まれたのは腰であった。鋭く打ち付けられ、帝一は無理矢理に肺の空気を吐かされる。声帯が震えて、声が作られた。犬みたいだと帝一の背に当たる。犬、と帝一の唇が動いた。内臓の潰される音を熱の中から拾い上げ、僅かに高くなった声を上げる。立ち込めた臭気にえずきながら、また、声を。犬という言葉が帝一の頭で膨らんでいった。狭いすぼみをこじ開けられ、ぐぼりと内臓をかき回されるたびに強い痙攣を体が起こす。犬という言葉と共に弾けそうになる意識があった。「いろんな犬になるっていうけど」腰を掴む弾の手に力が入った。そこには幾度と繰り返される痣が残っている。
「俺の犬にはなりたがらないよな」
 ぬっとりとした感触が、下半身を溶かそうとしていた。土と、草と、水辺と、汗と、精液のにおい。それら全てが帝一の何もかもを掻っ攫って、粉々に砕いていこうとしている。朦朧とする意識の中で、帝一は小さく口を開けた。死にゆくときみたく地面にすぐさま落ちた声に、弾は快活に笑って、返すようにワンと鳴いた。
 冷えた感触に体が震える。
 目を開いた帝一は、己の体を拭いている弾のつむじをぼんやりと眺めた。顔を上げた弾は、帝一が起きたことを知ると眉を下げて笑った。
「制服汚してごめんな」
 そういっている弾の手に握られた、帝一の体を拭く布は、確かに彼のシャツだった。帝一は見たままを言葉にした。シャツ。弾は気にしたそぶりもなく「俺のはいいんだ」と言う。帝一は集約する気のない意識に任せて舟を漕ぐ。ぼんやりとした視界で、濡れたシャツを乱暴に鞄に詰め込む弾の手が見えた。大きな手だ。その手が伸びると、帝一のシャツと学らんの釦を止めていった。この手が、と何処かの意識がぼやいた。弾は眠りかける帝一を背に担ぐ。弾の視界が帝一の纏まらぬまなこに飛び込んだ。高い、と思う。弾の視界にあの日はどう写ったのであろうか。帝一の指先が不意に痛み出すが、しかし泥濘む気だるさから抜け出すことはできなかった。しかし、弾が何をしたとしても。帝一は落ちゆく意識を口からはじき出した。
「ぼくは、おまえにはまけない」
 弾の耳に続いて潜り込んだのは、帝一の寝息だった。
「なんだよそれ」
 固い声のまま、弾は地面を蹴り上げる。先ほどまで、犬が犯されていた場所だ。