秒針の音が取り戻せない遠くまで放り投げられて、恒久的に世界が定められてしまったかのようだった。揺れる体躯と部屋中に詰め込まれた旋律を聴きながら、弾はゆっくりと息を吐く。窓から差し込んだ日差しで輝いた輪郭には祝福というぼんやりとしたものが溶け込んでいそうだ。もうずっと長いこと、この姿を眺めている気がする。弾の目の前でピアノをひたすらに奏でる帝一は、永遠性の証明ではないだろうか。途方もない。途方もなかった。懐かしささえ含んだ眼差しをして、弾は一心にピアノを弾く帝一から目を離す。窓から見えるものは青空だけだ。ぼんやりとした面持ちで弾はつっと言葉を作る。「帝一」呼びかけるもピアノを弾き始めると、周りの音がしばし聞こえなくなる男だ、反応がないのをみるに恐らく今回も聞こえていないのだろう。それでも構わないとばかりに弾は、帝一を視座に座らせて笑いかける。「俺、お前のこと好きだぜ」佳境に入った音階がいっとうに差をつけて跳ね上がり始めた。すごいなあと呟いて、これだけすごいものを金を払わず聴けていいものなのかとも思った。弾にとって娯楽としての音楽は、なかなか想像ができないものではあったが、しかし帝一の演奏を聴くたびに物質のないものに大枚を叩きたい気持ちが湧き上がるのだ。贅沢なことをしているなあ。俺が帝一たちみたいに生活を送れていたとしたら、きっと演奏を聴く毎に白魚の指へ金を握り込ませていたことだろう。と、考えてから、弾は金を握らされた帝一がひどく憤慨する様子を想像した。怒るな、とたやすく想像できた、帝一の怒りの様相に弾は小さく笑った。同時に、音がやむ。「僕もだ!」強い声が響くも、弾はその言葉に即座に反応ができなかった。呆けた顔が浮かんでいることだろう。帝一は弾をまっすぐに見つめていた。親愛の情が見える。「弾、僕も同じだ」絶対的な信頼が、弾に向けられていた。友に対する親しみと、全てを肯定する眼差しだった。「聞こえてたのかよ……」「聞かれないと思ったのか」どこか得意げな笑みのまま、帝一は鍵盤を軽く拭いてから布を敷き、重たいその蓋を閉じた。演奏の終わりだ。帝一の支度の物音を聞きながら、弾は先ほどのまなこを思い出していた。帝一からの、弾という人間に対しての信頼をだ。
蒸し暑い部屋だ。舌を打つと、足元に蹲る体躯がわずかに震えた。青あざにまみれた脇腹に靴先を押し付けると、体中の力を込めて強く縮こまる。俯くその顔を見るために、傷んだ髪を掴み上げた。細い髪が指に食い込む感覚は、蹲った男に起き上がるだけの力がないことを伝えた。恵比寿だ。膨らんだ顔についた折れた鼻を見て、昔にやった福笑いがなんとなしに蘇る。腫れた瞼の隙間から覗く目が、怯えたように大鷹弾を映すので、握った拳を解くことができない。
信じがたいというのが素直なところだ。弾は抜け出した夢を思い返して、やはり信じられない思いを強くした。前の席で黙々と書類を片付ける帝一を見つめ、恐ろしい気持ちになった。強い動揺が未だに体の中にある。あの夢は、弾にとってひどく残酷だった。泣き出してしまいそうになる。弾は誤魔化すように磨り減った鉛筆を手に取った。積み重なった書類に向かって、一心に文字を書き込んでいく。書かれた文章を吟味して、サインを書く。だが読み解こうとする文字がうねると、また弾の脳にはおぞましい光景がチラつくのだ。「おい、弾」帝一の声が鋭く耳に突き刺さる。弾は慌てて顔をあげるも、帝一の目は書類に定まったままだった。「僕でよければ、話を聞くよ」言えるわけがないだろう。弾は鉛筆を握る手に力を込めた。言えるものか。帝一の前では、弾は折れてはいけないのだと思っている。人々の前に立つ姿は、折れることを知らない強さと、堂々とした精神を持っていなければならないし、それが当たり前に自身の形だからだ。けれど、さざなみがたえず泡立って弾の心を忙しなくさせている。どうすればいいのかが、手段を見失っていた。混沌とした思考のまま、弾は頭を振って言葉を濁す。帝一がゆっくりと書類から目を離した。鋭い目の中には、確かに弾を気にかける様子を含んでいる。その目をもって弾はますます追い詰められたように感じた。まるで自分が卑怯者になったように、生まれて初めての感情に責め立てられていた。
「心配してたぜ」
扇風機の回る音とそよ風は、しかし茹だった体を覚ますには十分ではない。どろどろに溶けそうな熱を抱えたままに、横たわる体を揺すぶってみせる。強張った体に手を押し付けると、正反対に血の気が失せてひどく冷たく感じた。赤場帝一の、すべてを失った脆い体、その冷たさは、たやすく形を変えられる。大鷹弾の望むままにだ。
さすがだな、弾。と、帝一の声を聞いて、弾はようやっと不可解な夢の原点を見た気がした。
胃液が出るまで吐ききると、蛇口をひねり口をそそぐ。鏡に映った顔を眺めながら、弾は普段通りに戻るまで、笑みを変えて確認する。帝一の側にいて、あのすぐに崩れかける心をそれとなしに受け止めるには、今の弾の姿ではだめだった。元に戻らねば、と弾は強く念じる。肩を叩かれる。「弾、こっちを向け」帝一の凛とした声は、感情をずたずたに引き裂いていった。恐る恐る振り返った弾を見て、帝一は訝しむ顔のまま、腕を組み、首を傾げ、それから一人納得したように頷いた。「授業が終わったら、お前の家に行く」「は?!」「僕はコロッケが食べたい」「いや、帝一、」弾の言葉を待たずに踵を返し去って行く。まっすぐな後ろ姿を眺めながら、弾は真っ白な頭で冷蔵庫の中身を慌てて思い出そうとしていた。
沈黙。なんの音もしない、いや帝一がコロッケを食べる音はしている。弾は自宅であるのに所在のなさを感じていた。膝の上で握った拳を見つめながら、帝一の食事の終わりを待っている。思いもしないだろうに、今回ばかりは早く帰ってくれないかと考えていた。箸を置く音がした。コップに注がれていた麦茶を飲んでから、帝一は弾の名前を呼んだ。「確かに僕はいままでずっとお前に助けられてきた」自分がどんな表情をしているのかが分からなかった。「お前からすれば頼りないのは重々承知だ、それでも話くらいは聞かせてくれないだろうか。今度は僕がお前を助ける番だと、あの日に言ったろう」何をすればいいのかが、分からない。
もうやめよう、と言った声は赤場帝一のものだ。自分から始めようと、頭を下げてまでやらせたくせに、随分勝手なことを言い出すんだなと大鷹弾はどことなく冷めた目で、やりすぎたと怯える赤場帝一を見下ろしていた。なので、こういったのだ。俺のこと心配してるんだろ、大丈夫だって、付き合ってやれるよ。その時の表情といえば、今思い出しても笑い出してしまいそうなものだった。まだ、腹部にせいぜい二箇所程度の青あざしかない頃のことだ。
帝一の中に作られた弾の姿はなんだろうか。文武両道。公明正大。世の輝かしいもの全てであろうか。弾は、弾のことを善き友人として信頼する帝一の目に耐えかねていた。だからああいった夢を見る。ひどいものを。というのが、ここ最近の自身を不安定にさせた原因であろうと結論付けて、しかし解消の仕方も分からないままずるずると過ごしている。帝一は度々弾の家に来ては夕飯を取って帰って行く。何をすればいいのかが、分からない。けれども何かをしなければならない。弾は深く息を吸い、数秒間呼吸を止める。決心をつけたように息を吐いて、唐揚げを食べていた帝一をまっすぐに見据えた。「帝一は、人を殴る夢とか、みたりするのか?」「みるよ」そりゃあもう、徹底的にしてやってる。帝一はあっさりと言葉を返してから、怪訝な顔で弾を睨めつけた。「まさかおかしくなってた理由が、人を殴る夢をみたってことじゃないだろうな」あぐむ弾をまじまじと見ていた帝一は、大きくため息をついてから、改めて佇まいを正し、「大鷹弾くん」やたらと他人行儀な声をあげた。「人間は昼と同様、夜を必要としないだろうか」「えっ、」「じゃあ、そろそろおいとまするよ」立ち上がって出て行く帝一を呆然と眺めてから、弾ははたと机の上を見た。それから条件付けられた動きで食器を片付ける。洗い流している最中、あ、と声が上がった。ゲーテだ。
細い指が鍵盤蓋を開けた。「僕だって何もお前が聖人だとは思ってないさ。いや、少し思っていた時期もあったな」「マジかよ」椅子の高さを調整してから、ゆっくりと帝一は腰掛けた。とはいっても、この場所でピアノを弾く人物を帝一しか見たことがない。鍵盤全体を、そよ風みたく指が撫でていった。帝一は鍵盤を見つめている。弾はどうにも不安になる精神に押しつぶされそうな声をあげた。「けど、帝一が考えている以上に、ひどいことばっかだぜ」鍵盤を見ていた視線が、弾に向けられる。その目に浮かぶものを、弾は計り損ねていた。「そのひどいことを、やりたいと、やろうと思うのか?」「まさか……」「ならそれでいいじゃないか」ピアノに向かい直して、帝一は鍵盤を静かに沈めてみせる。演奏をする段階ではない、息抜きのような手遊びの音が響いている。音の連なりは、果たして紙面に浮かんでいたものなのかは弾には分からない。「ここだけの話、出会った当初はお前のことを一番の腹黒だと考えていたが……あながち間違いでもないわけだ」帝一はおかしそうに笑って、また鍵盤を一つ、二つと沈めた。どうにも言えない気持ちが弾の中に渦巻いていた。幼子の純真さでピアノに触れながら、愉快そうにする帝一へと弾は近づき、細い手首を捕らえた。驚いたように帝一の目が弾の姿を映す。焦燥した顔が、まなこの表面に浮かび上がっている。「こんなこと初めてなんだ」持て余した感情を吐露できないままに言葉をこぼす。弾の手に、帝一の手が重ねられる。「僕にだって、お前が道を間違えたら、正しい場所へ戻すくらいはできる」余裕だ、と付け足された。弾へ向けられた顔には、微塵も疑うものも、迷いもありはしなかった。弾の暴力的な思想の一面を知っても、帝一は信頼を揺らがせない。眩しいものをみるように弾は目を細めた。「帝一かっこいいな」「なにを今更」弾からの賛辞を当然の顔で受け取ると、掴まれていた腕を引いた。弾はそっと手を離して、先ほどまで座っていた場所へと戻った。「初めてのことに戸惑っている大鷹弾くんに、一曲捧げようじゃないか」「その呼び方やめろよな」「ならさっさと折り合いをつけるんだね」帝一が大きく息を吸う。それから指がしなり、鍵盤の上を軽快に踊り出した。軽やかな低音が続いていた。帝一の奏でるすべての音が、弾の心に潜り込んできている。人生で帝一以上にうまくピアノを弾けるやつには出会わないんだろうなと弾は漠然と思ってから、その一曲がいま、自身のためだけに弾かれていることに喜びを感じた。「帝一」弾はピアノを引き続ける、整った横顔を見つめた。誰よりも素晴らしい友人の姿だ。「帝一、お前のことが好きだ」視線が弾へと投げかけられ、屈託のない笑みが帝一の顔に浮かんだ。「僕もだ」弾はしばらく抱え込んでいた、どうにもならない不安が消えているのに気がついた。窓から入り込んだ風がカーテンを翻し、また帝一の髪もわずかに浮き上がらせた。穏やかな時間だった。うつくしく柔らかい旋律に包まれながら、弾は訪れた真綿の眠気に身を委ねる。目を閉じても、ピアノを弾く帝一の姿が浮かんでいる。ピアノの音が弾の意識をばらばらにしていき、茹だるような熱がすぐ背後に迫っていた。けれども次は、優しく触れられる気がするのだ。