僕はきちんと正気を保っていたので、弾の笑う姿が見えることに、ついに気が触れてしまったんだとよくよく理解をしたのだ。
狭い台所で手際よく動く姿は数年前に見ていたものと変わりはないと感じる。「今日はコロッケでいいよな」と冷蔵庫から具材を取り出して話かけてくる声に、ああ弾はこんな声だったなあとしみじみと思うのだ。なあ、と、振り向いた弾は無邪気な笑顔で僕に話かけている。僕はそれが幻覚であるとわかっているのだが、それでも昔のうつくしい思い出に微笑まずにはいられなかった。「仕事どうなんだ。いま大変なんじゃないか」と僕のことを気にかける弾に、別にと言葉を濁す。テレビで見るより疲れた顔をしていると指摘されるともう参ってしまうものだ。きっと弾は僕が部屋にやってこない間は一人でテレビを見ていることになっているのだろう。狭いアパートは僕がきちんと僕の幻覚を飼いならすためにはどうしても必要なものだ。けれども部屋を用意してから、僕は、弾が一体どういった部屋で過ごすのか全くわからなかった。彼のことを何も知らなかったのだなあと寂寥たる思いを抱いたが、横で空っぽの部屋を眺める弾は、あれが欲しいこれが欲しいと声にするので、果たして真実弾の好みかはわからないが今はそれなりに弾の過ごす部屋をしていた。今日泊まっていくだろと言う弾に、そうするよと返してから僕は席を立つ。弾は何も言わなかった。アパートから少し歩いたところにある公衆電話に、テレフォンカードを差し込んで慣れた順番で数字を押していく。数コールした後に「はい、赤場です」と声がした。「美美子」自然の声がはずむ。どうしたの、と優しい声が鼓膜を撫でていった。ああ、僕の美美子。君に嘘をついてしまう僕を許してくれ。仕事で帰れないことを伝えると、無理しないでと体を抱きしめ撫でる声がまた受話器から溢れてきた。僕は美美子に対して誠実でありたかったが、彼女を気の触れた僕の精神に誘うわけにもいかなかった。美美子は知らないのだ。「奥さんのためにも、はやく見つかるといいね」とふとした時に言う優しい美美子は、弾が死んだことを知らないのだ。美美子だけではない。みんながそうだった。誰も弾が死んだことを知らない。僕はだからこそ余計に、全てを隠して精神を取り繕う必要があった。そうだな。短く呟く僕の肩を優しく撫でるのはいつだって美美子だ。部屋に戻るとすっかり出来上がった食事が机に並べられている。弾が手をつけずに座っているのに、先に食べていてよかったことを伝えると、一人は寂しいと返された。それもそうだろうなあと僕は思った。弾はあの賑やかな食卓で育ったのだから、一人ではきっと食べられないだろう。僕だってそうだ。一人は寂しい。食事の間、僕と弾は無言だった。時折、食べている姿をじっと見つめられたが、僕はその視線を無視して箸を進めた。あの日のように、うまいという言葉も言わなかった。食器を洗う音がしている中、僕はこうして弾と過ごす無為な時間についてよく思いを馳せる。「親父が死んだ理由がよくわかるよ」弾は食器を置きながらぽつりと呟いた。弾が父親の死について何かをいうのは初めてだった。弾の言葉ではないが、今の僕には確かに弾の言葉だ。幻覚と話すとき、幻覚の言葉は、一体なにを基準に選ばれるのだろうか。僕は偉大な父の背を思い出す。けれど、やはり、僕は疲れているのだろう。なんだかうまく言葉がまとまらなかった。薄暗い闇が体に降りかかる。僕は眠りに落ちていった。
荒い息が響いている。脳が捉える感覚は、浮遊と、熱と、痛みと。痛み、そうだ。僕の意識は急速に浮上した。目を開いても広がるのは暗闇だった。体を引き裂かれる痛みから逃げるように動こうとしても、押さえつける力が強すぎて悲鳴をあげるしかなかった。のだが、悲鳴も、僕は満足にあげられなかった。うめき声だけがあった。口が開かない。鋭い痛みが延々と与えられ続けている。肉を掻き混ぜる音と、熱気と、暗闇と、ああ、弾の手だ。掴んだ手首に爪を立てる弾の指先は力が入りすぎて白くなっている。ぎざぎざの爪が皮膚を削り取っている。目の前が白くなる。気を失いそうになった時、左手が離されて、僕の顔に拳がぶつけられた。点滅した視界を瞬きで何とか戻しながら、僕を犯す弾を見る。逆流した鼻血が喉に無遠慮に入り込む。不自由に咳き込みながら、また僕は呻いた。鋭く上がった眦が赤く色づいている。興奮しているのだろう。それから僕は、この幻覚が、幻覚ではなく、未だ夢なのだと悟った。心に湧き上がったのは己への失望だった。弾が眉を寄せて、唇を噛み締め、体を強張らせて短く息を詰める。体の中に吐き出された精を感じながら、この夢が突きつける僕の本心にひどく絶望を感じる。ただ気が触れているだけならどれだけよかったであろうか。弾が死んで、僕は幻覚と共に過ごす日があって、それだけで済めばどれだけよかったであろうか。今の僕は、遠き日の暖かな記憶すら踏み潰して、ただ過去を裏切り続けているのだ。勢いよく剥がされたガムテープが唇の皮を全部剥がしたみたく痛みが走った。口に溜まった唾液と血を吐きながら、大きく息を吸う。かすれた音がした。「おおたか」謝る僕を見下ろしながら、弾はまた拳を振り上げる。制裁だった。過去と美美子とすべてを裏切り続ける僕への制裁だ。ややあって弾は手をおろして僕の体に触れた。頬と首を撫でてから、胸に爪を立てて腹まで痕を残していく。僕はその手をそっと握った。熱い手だった。弾も燃えるような体をしていた。肩に腕を回されるたびに、近づいた体の熱で辟易とした覚えがある。それと同じ熱さだった。身を屈めて、僕の胸に額を押し付けて泣く弾を、抱きとめる権利はあるのだろうか。僕にはわからなかったが、気だるさが重くなるのに夢から醒める時がきたのだとわかった。
カーテンの合間から差し込む光は弱く、まだ朝日は登って間もないのだろう。未だ力の入らない体は眠りの淵に立っていた。弾が傍に座って、僕の様子を伺っていたので、おはようと声をかける。黙ったままの顔色は、なにもかも塗りつぶして不透明だった。またすぐさまにでも眠ってしまいそうだった。心地よい眠気の合間に弾の声が縫い込まれてゆく。「俺の名前を呼ぶまでここから出さない」意識が途切れる。