fgo-24

 火矢が焼き尽くし燃え立たせる煙は重く広がり空を覆い隠している。時折気まぐれに裾をちらつかせる光が今は太陽がすべてを照らす時と知る。だが戦場は明るみにされることがない。ただただ息苦しい薄暗さが天蓋だ。爆ぜる火の音が嘗め尽くせば人の臭いが一段と濃くなった。熱された鎧の中で肉汁の沸き立つ音が反響している。飛び散り流れる血に混じる油が不気味なてらつきで渦巻いていた。敗戦だ。いや蹂躙だ。駆除だ。自重に負けたように積もりゆく砂塵と薄く包み込む黒煙に視界を定めることもままならない。男は踏み出し柔らかな大地へと足を沈めた。ぬかるみを形作る骨の硬さを踏み砕いて一歩を進める。また一歩。吸い込む空気は苦く生臭い。足元から蒸したつ熱は男の体も炙ろうとしている。汗腺から送り出された汗が睫毛へ蟠って一段と視野を悪くしてゆく。辺りの火の勢いは収まることがなく諸方で死体を焼き続ける。男は黒煙を見上げ雨の気配を探った。いずれ。やがて降るであろう洪水が如く雨を。ここは潰された河川の姿をしていた。あれはいつのことであったか。毒を流し込まれたことで魚の死体が水面を埋め立てた日は。いつであったか。しかし雨で流されればかくも醜い河川の様相は消え失せるだろう。洪水が必要であった。死の霧を歩んでいた男はやがて足を止めた。もはや敗北の宣言すらさせることもしなかったのだ。喰い合う醜いけものの本能だ。歯の全てを抜かれた男の顔を眺める。瞼が切り取られ暗い穴を見せる男の顔を眺める。鎧を剥ぎ取られ体に文様を刻まれた男の顔を眺める。ああ。男は生まれ育った故郷の無残な体を抱き上げた。大きく喉が鳴る。がらんどうに響き渡る咆哮が大地を揺らすことはない。覆われた空も男の叫びに答えることはなく。ただ燃え上がる大地の黒煙を受け止め続け荒廃を肥大化させるのみであった。救うものも救われるものもここには存在していない。男は国の残骸へ歯を立てた。
 猥雑な路地裏のいやに生気を孕む熱気が、騒音じみて場を作り上げる。くすんだ色合いは統一されることがなく散らばっていて、多民族が商いをしているのだと思わせる。実際にそうではあるが。背後から聞こえる値引きの交渉、商品の謳い文句、あらゆる人々の声を聞き流しながら、磨かれた金貨を指から滑り落とした。回転することもなくすぐさまに分厚い手のひらに捉えられた金貨たちは、媚びるように光を反射させていた。それから木の籠、鉄の檻、石の壺とを見渡す瞳が、白骨じみた指の指し示す場所を追いかけて、杭と鎖に繋がれた男で止まった。
「整えてお届けしますよ」
 その時は、しゃんとした馬車を使うのでご安心を。しかし夜露の声は、そのままで、と言った。このまま連れてゆきますから、鎖は全て外してください。逆らう理由もない商人は言葉に従って奴隷の鎖と、耳朶に釘で差し止めていた管理票とを外していった。それから動く気配のない奴隷に声を荒げて、場違いに純白を切り取る姿を言葉で示して、お前の飼い主になる方だと言いつけた。奴隷は少し遅れて飼い主の前へ一歩踏み出た。いきましょうか。辺りの音に紛れて消えそうな声だったが、その細く針のよう頼りない姿の歩みに、だというのにやたらと重々しい足音へ奴隷はしっかりとついていった。人々が二人、特に奴隷へ見世物を眺める目を向け始めたのは、実に騒がしい露店の通りを抜けてから、しばらく歩いた先にある居住区に入ってからだった。そこは整理された区画で、まばらに人が出歩いているだけであった。だからこそ余計に奴隷は目立っていた。襤褸を纏った垢まみれで毛むくじゃらの奴隷をこうして連れまわす細い脚の運びは一定だ。家屋が静寂に伏し始め、そうしてすっかりと静かなで朽ちた寂しさばかりに包まれるころ、奇異を蔑む往来はどこにもありはしなかった。「4ブロックほどは無人なんです」寂れた区画の中にその家はひっそりと建っている。奴隷はしばし周囲を見渡した。道の先、家と家の細道、痩せた木、砕けた石畳、隣家の窓と鉄管。それから飼い主が入っていった家を見上げた。二階建ての小さな家だ。正面からでは正確な作りはわからない。窓の数も、庇のある場所も。奴隷はわずかに開かれたままの玄関に手を潜らせ甲で開いた。
 銀の浴槽にはられていた湯はすっかり泥水の有様だ。奴隷は泡立った布が垢と泥をこそげ落としていくのを眺めていた。細技の力では容易くなく、幾度と奴隷の輪郭を撫で上げている。疲れたような息が肩口を擽った。未だ一言として飼い主と奴隷は会話をしていなかった。奴隷はただ黙っている。脂とふけにまみれて固まった毛先を、白磁が丁寧にほぐしてゆく。指の腹が頭皮へ押し当てられ、細やかに動く。泡立ちにくい状態に、潜めた、苦い笑い声が泥水へと落ちていった。湯を被せ、また洗い、そうして湯を被せる。二度、三度と繰り返す頃には奴隷の髪は、くったりとしてはいるが芯を持った柔らかな状態へと変化した。それから飼い主は小ぶりの陶器で泡をかき立てて、奴隷の顔へゆっくりとぬりつけた。細かな泡は固さを持って皮膚の上にうずくまっている。「傷つけるわけではありませんから、動かないでくださいね」奴隷を包む生ぬるい湯のように、鼓膜がくすぐられる。視界の端で光ったナイフを眺めていた奴隷は、その刃が頬にあたると、黒々とした目を刃の持ち主へと変えた。わずかに力が込められていることで寄せあげられる薄い唇へ視線を注ぐ。皮膚を少し引っ張る指先と、滑る刃の冷たさが、小さく削り落とす音を作り上げていた。奴隷は見続けていた。首元から顎を刃が滑るときも見続けていた。奴隷を買ったうつくしい男は、手繰るナイフへ集中しているのか、視線の先について何かを言うことはなかった。無作法に生えていた髭を落とし、眉を二手に分けると次にその指が潜り込んだ先は鋏であった。伸びた髪の束を取る。「どの程度がいいのでしょう」奴隷が何かをいうことはなかった。「言葉が通じればよかったのですが」躊躇う素振りもなく、鋏は奴隷の髪を切り落としていく。毛先の束が浴槽へ浮かび上がる。泥水はますます泥水じみていた。ごみの浮かぶ水面のようだ。
 湯ですすがれ浴槽を出ると次は柔らかな布が奴隷へ手渡された。そのまま手渡されたものをじっと見つめた奴隷に、飼い主は少し困ったような顔をみせる。
「貸してください……こうですよ」
 石膏から削り出された体に布を押し当てる。吸い取られた水気の動きを指で示しながら、飼い主は再び布を奴隷の手へと戻した。手と腕とが動き体を拭い出すのを認めてから、飼い主は部屋を出ていったが、すぐさまに戻ってきた。その腕には服があった。細かな繊維で作られた簡素な服だ。白い袖へ腕を通した時、その皮膚が厳しさは一層に際立つ。夥しい傷跡が幾重にも織り上げられた無骨な皮だ。太い手首を取り囲む蛇の縄目に指を触れ、飼い主はため息をついた。這いずった跡をわずかに辿り憂いた目で奴隷を見やる。泥濘んだ色味の虹彩が慰るそぶりは毒を産み落とす動きであった。奴隷は己の体を織り上げる傷と痣とを見つめるものを、いまいちど、ゆっくりと眺め下ろした。余裕をもたせた布の折りで隠された体躯の脆弱さは十分に理解したつもりである。濃紺の髪ではあるが、真白の毛先を持つそれに、果たしてどういった経緯があるのかは想像もできなかった。ぬるい瞳が奴隷のまなこと合わさると、飼い主は一度頷いてから足を一歩下げ、部屋の外へと向かう。その床の軋みは、奴隷が歩くのと同じだけのようだ。
 次に向かった先は一階にある応接間であった。手のひらを奴隷へと向け、軽く押してみせる動作をする飼い主はそのまま部屋を出て行った。長椅子が二つと、膝ほどまでしかない机があった。壁にかけられた額には縫いとめられた蝶が均等に並べられている。暖炉の上は何も置かれていなかった。重たいカーテンを隅に寄せた窓は十分な大きさがあり、難なく飛び出せるであろう。差し込んだ光は外の気候もあり曖昧である。遠くから聞こえていた飼い主の話し声は止まり、床がきしみ始めた。慣れた足取りは、その重たさと長く付き合ってきた証なのであろう。近づいたかと思った足音は徐々に離れてゆき、やがて陶器の触れ合う音を奴隷の耳は捉えた。家に入って初めに目にした柱時計の秒針が4週ほどする頃にまた足音が姿を表して、奴隷のいる部屋へ飼い主は姿を現した。「座ってください」飼い主は奴隷の横を通り抜けると、手に持った盆からポットとカップを机へと移動させる。彼の声がしてなお、立ちすくんだままの奴隷を認めると、ああ、と小さく息を漏らした。「どうにも、いけませんね」そう続けてから、奴隷の腕にそっと触れて来た指先は弱々しい力で長椅子へとその体を導く。飼い主の座った向かいへ、ゆっくりと奴隷は腰掛けた。深度はとても深い。
「どうしても、あなたに言葉通じるものと口にしてしまいます」
 差し出されたカップの色は透き通った真紅である。奴隷はその水面に目を凝らした。
「今も伝わらないとわかっていますが、ねえ」
 飼い主は静かにその水を飲んでいる。奴隷は暫し所作を見つめ、それから己の前に置かれたカップへ手を触れた。滑り込む温度は生ぬるい。
「あなたに言葉を教えねばなりませんね」手のひらをみせ腕を伸ばしす。奴隷の目線を受け止め続けるそこを、飼い主は指先で軽く叩いた。緩慢な動作で奴隷の腕が動き、割れ物の指へ折り重なる。飼い主は小さく息を吸い込むと、目を伏せ、静かに少しづつ吸ったものを吐き出していった。ゆるやかな呼吸に伴って、奴隷は己の手のひらに熱が蟠るのを感じ取った。重ねられた手から温度がにじんでいる。識別があった。
 柱時計の重々しい針が10回ほど動く頃、蹄の音が奴隷には聞こえた。飼い主はわずかに指先を動かしたことに気づき、どうかしたのかと問いかけてくる。蹄と車輪の音だ。奴隷は窓を見た。廃墟の地平からややあって馬車の影が姿を表す。それは家の前で止まり、人を一人降ろした。奴隷は飼い主を見遣り、それから再び窓を見た。「ああ、」奴隷を残して再び飼い主は部屋から出て行った。重々しい扉が開く音がしてから、明るい声が交わされている。
 採寸というものだった。奴隷の体をはかる男は何枚かの布を取り出して、体の前へと合わせて見せる。飼い主はいくつか見ていたが首を傾げて、奴隷の肩を叩く。それからいくつもの布を指差してから、淵の目を見つめた。
 香草と共に蒸された肉を切り分けながら、飼い主は奴隷へ声をかける。そのどれもに奴隷は言葉を返さなかった。ただ押し黙って差し出された食事を眺める。「ワインはどうです」と口にした飼い主は奴隷の反応など気にもせずに、グラスへなみなみと注ぎたてた。それから自身も煽るようにグラスからワインを飲み干すのだ。蒸気した頬の色づきが明瞭になる頃には、飼い主の意識は十分に沈み込んで机へと伏せっていた。奴隷は切り分けられたままの食事と注がれたワインとを見る。暫し呻く声を漏らす飼い主の長い髪が机に広がると、滑り落ちたことで姿を現した透き通る頸が蝋燭に照らされ、浮き立つ汗を目立たせた。柱時計の音と、飼い主の寝息とが部屋を満たす音の全てだ。奴隷は伏せられた瞼の薄さを眺めていた。
 朝日よりも鮮烈に飼い主はその顔を色づかせる。四方八方へ彷徨う瞳の動きはせわしなく、声もおぼつかないものだった。
「私としたことが、なんてことを」
 矢継ぎに言葉を零しては呻いている飼い主を奴隷は変わらぬ姿勢で眺める。長く降りた髪の合間から、ぬかるむ目が覗いている。飼い主はややあって落ち着きを取り戻していくと、空になっている皿を眺めて、奴隷へ食事の感想を口にする。当然のように返事はないが。
「けれどもよかったです、お口に合ったということにしておきましょう」
 曖昧な笑みは己の失態をまだ隠そうとしている様だ。
「こんなタイミングですがあなたの部屋を案内しますね」
 ここの片付けは後にしましょうと続けてから、飼い主は奴隷を立たせてまた先を歩み出す。階段を上ってから最も遠い部屋が奴隷へと充てがわれた。「他は片付いていなくて」奴隷の体がギリギリ抜けられる程度の窓が一つと、箪笥とベッド、それだけだ。「私は片付けを済ませてきますから、自由にしていてください」飼い主が姿を消すと、奴隷は振り向いて階段までの距離を眺めた。それから部屋へと入り箪笥を開ける。中には何もない。軽く指の関節で鳴らすも音は均等であった。それからまた部屋の壁を鳴らしていき、ベッドへ手のひらをつき力を込めた。少しばかり固めといったところだ。次にしゃがみこんでベッドの下に視線をやる。わずか数センチの間には入れられるものは限られている。立ち上がり窓を開けて身を乗り出す。窓のすぐ真下には生い茂った草がある。左右をみるも庇のようなものはない。仰け反り上を見る。屋根までは窓の縁を使えば登れなくもなかった。それから隣家をみるも、窓はなく、部屋のちょうど目の前は壁だけである。そこから2メートルほど置いて窓がある。曇りきった窓ガラスで、中の様子を伺うことはできなかった。
 ベッドに腰掛けたまま暗闇の中で音はより顕著に姿を現した。錆びた鉄と木の板とが擦れ合う音が大きくなると、奴隷は目を開き開け放ったままの扉へと目を向けた。顔をみせた飼い主が手招きをする。奴隷は立ち上がり後へと続いた。「あなたに家のことを覚えてもらわないといけないのに、私一人で片付けようとしていました」いわゆるキッチンだ。洗いかけの食器が置いてある。飼い主は奴隷のすぐ横へ立ち、一枚の食器を洗ってみせてからスポンジを無骨な手へ握らせた。奴隷は緩慢な動きで食器へと手を伸ばした。慣れないことをしているような動作だった。飼い主は眺めつつ「したことがありませんか」と問いかける。奴隷のぎこちない手の動きはやがて平皿をものの見事に二つへと割ってみせた。動きを止めた奴隷は割れた皿を見つめている。ややあって飼い主が笑いを吹き出して、その手に持たれたままの皿の片割れと、流し台に落ちた皿のかけらとを手に取った。
「力を入れすぎですよ、もっと優しくでいいんです」促すと共に奴隷の手が再度食器を洗い始め、先ほどよりは随分とましな手つきではあった。それから飼い主は一通りのことを奴隷へと教えていき、全てが終わる頃にはすっかり日が落ちていた。「食事にしましょうか。あなたの国ではどのような料理が」奴隷は食材を見渡して頷く。
 並べられた料理の味は飼い主にとっては大雑把といったものだった。奴隷は口をつけることもなく食事の様子を眺めている。
「口にしないのですか」
 その言葉に遅れてから食事を始めた奴隷を、次は飼い主が眺める番であった。ワインを口にして、大きく切り分けた肉を口に運ぶ奴隷を見つめる。顎の動きと咀嚼に合わせて喉元の筋肉が動いていた。二度、三度と繰り返された頃、喉元の動きが急に止まる。視線をあげれば、奴隷が淵の目で飼い主を見つめていた。飼い主は息を呑み、狼狽えた様子を隠すことなく謝罪を口にして己の食事を再開した。誤魔化すように呑み干していくワインに意識が捏ねられていく。皿の上から料理がなくなる頃、飼い主はふらつく足取りで立ち上がり、風呂へ入りましょうと声を荒げる。凪ぐ稲穂の様相をみせた飼い主へと奴隷は続いた。
「ふくをぬいで」もつれる声と裾を掴み上げる手に従い奴隷は服を脱ぐ。指さされた空の浴槽の中へ座り込むのを見てから、飼い主も己の服を脱いでゆく。時折、呻く声が響いた。それから奴隷の前へと座りこんで、錆びた爪先を持ち上げ、厚い胸板へと押し付ける。奴隷は鈍色の足の形を追ってから、飼い主と目を合わせた。再び爪先を押し付ける動作をして飼い主は短く声を上げ、しかし決定的な動きは見せずにいる。奴隷は生皮の境に指をかけた。もう一方の鈍い足が太い腕を撫で上げる。「あなたとはよい仲にならなくてはいけなくて」酩酊に支配されたまま声を続けている飼い主は、脱がされた足を床に置くよう手振りしてから、物乞いの手つきを真似た。飼い主が一言零すと、それと合わさって細い腕は水で濡らされていく。合わせた手からどこからともなく暖かな水が溢れ出ていた。奴隷は浴槽に湯が張られていくのを黙って見ていた。生白い肉の器から、だくだくと。胸下まで満たされる頃、飼い主は緩やかに息を吐いて体を倒す。「ずいぶんとかたい体のつくりだ」
 捨てた水はさほど濁ってはいない。奴隷は中天を超えた太陽を眺め、それから朽ち果てた周りの家々を見渡した。割れた石畳を踏みならして馬車が去っていったのは、日の出からさほど経っていない時であった。空になった壺を掴み、奴隷は家の中へと戻る。どれほど強い光が降り注いでも、家内はまるで持ち主みたく静まり続ける。奴隷は次の作業をすべく歩みを進めた。
「逃げ出しているものかと、けれど、難しいものなのでしょうか」動かぬ表情と声色は、しかし意外そうな音程と動作をしてみせる。奴隷は何を返すでもなく、飼い主の前に立っていた。馬車の去りゆく音が霧に紛れる。置いた鞄が重々しい音を立てる。ああ疲れたと口にして、飼い主は深く息を吐いた。それから鞄の口開け、敷き詰められた服を一着、奴隷の前に広げてみせる。「あなたの服です」肩を合わせて押さえつけ、手が離された。「この鞄も差し上げますよ」開けられたままの鞄を軽く叩いてから、飼い主の指先は奴隷を指し示し、それからあてがわれた部屋の方向へと動いた。自室へと向かう飼い主の背が壁の向かいに消えるまでを見つめてから、奴隷は鞄を閉めて持ち上げる。階段を上がり奥へと進む。開かれたままの扉をくぐり、箪笥の横へと鞄を置く。開き、詰められた服と下着とを取り出す。袖口を指で挟みこすり合せる。広げた衣類を丸めるようにして全てを箪笥へしまいこんでから、鞄の内側に手のひらを当てていく。滑らかな布が返す凹凸は、革と打たれた鋲、縫い合わせる糸のものだけだ。立ち上がり、部屋を出る。階段を降り、奴隷は飼い主の部屋へと向かった。閉じられた扉から二歩離れた場所で立ち止まる。壁にかけられた照明は頼りなく、扉の隙間から漏れる光をより鮮明にさせた。服のこすれ合わさる音を聞き、足音が数回鳴ると、床に刻まれていた光は幅を一気に広めた。声が響く。はねた音を拾うより先に飼い主は次の言葉を続けた。奴隷は目の前を通り過ぎる歩みへと続いてから、飼い主が冷めたスープをかき混ぜる次の行動を見つめる。ぶつ切りにされた野菜と肉が浮き上がっては沈む。飼い主は細い指で鍋の底を示す。奴隷が石を打って燃やした薪の残骸が、再びなめつくされて赤々と爛れ始めていた。火だ。爆ぜる音に照らされた飼い主は、奴隷を見ると眉を下げて笑った。「あなたも魔術の火では毒になると?」奴隷の目は飼い主を写し続け逸らされることがない。物言わぬ様子を気にしたそぶりもなく、飼い主は戸棚から食器を出していった。「そういえば」飼い主が振り向いた。「やはり、はやいですね」己の顎に触れてみせる。奴隷は倣って頬と顎に指を滑らせた。豊かな感触があった。
 泡を削ぐようにして石鹸を皿に置く。手のひらで立てられた泡を口元へ塗ってから、置かれたナイフを手に取った。皮膚の上を滑るナイフの動きは正確である。やがて全ての泡を落とす頃、つるりとした皮が出来上がった。奴隷は口元を撫でる。引っ掛かりがないことを確認してから、水を出し、ナイフと洗面台を洗い流した。「もう少し……眠らせてはくれませんか」飼い主の弱々しい声が毛布の中から這い出ている。奴隷は手を下ろして一歩下がる。二度、三度と毛布は揺れて、それからすっかりと動かなくなった。寝息。奴隷は閉められたままのカーテンを見上げる。重々しい布は外の光を一切差し込ませない作りである。飼い主を見る。毛布からのぞく細い指、柔らかな髪、それらを眺める。日の出はとうにすぎている。頂へ近づきつつある太陽を知らぬように夜の気配を残す部屋で、奴隷はただ飼い主が起きるのを待っていたが、ふ、と厚いカーテンへと顔を向けた。身動ぐも眠りから覚める様子はない飼い主へ一瞬目を向けてから、踵を返すと静かに扉を開けて二階へと足を向ける。己の部屋の窓を開けて身を乗り出す。天へ身を伸ばす草を踏みつける。壁に背を当てる。二回瞬いた後に、壁から背を離す。隣家へ向かってから道へ出た。ちょうど飼い主が眠る部屋の前に男が一人いた。奴隷に気がつくとわずかに息を詰まらせて、慌てたように庭先から出てくると、先ほどまで見上げていた家と奴隷を見比べて肩を落とした。
 あんたこんな辺鄙なところでどうした。男は訝しむ顔をして奴隷へ言葉をかけ続ける。「見た所よそ者だな。とにかくここいらには長居せんほうがいい」魂を穢されるぞ。奴隷は男を頭からつま先まで眺め、それから道の先へと顔を向けた。変わらず廃屋が立ち並んでいた。姿のない影は一つもなかった。奴隷は再び男へと顔を向ける。
「ああ、こんなところに」
 玄関を開けた飼い主は庭先で草をむしる奴隷の姿を確認をすると、声をあげた。無遠慮に生い茂っていた雑草が引き抜かれて一箇所にまとまっている。草が引き抜かれることで、土が少し掘り返されたのだろう。柔らかな土壌が姿をみせていた。土まみれの奴隷の手を見て飼い主は労わりを投げかけた。「ありがとうございます、毟った草の処分は後にしましょう」さあ、と誘われるままに奴隷は家の中へと足を入れる。飼い主は扉を閉めるとすぐさまキッチンへと引っ込んでしまった。洗面台へ向かい、蛇口をひねる。勢いよく出た水で泥を大まかに落としてから、石鹸を手に取った。荒い皮に挟み込んで泡立てる。指に入り込んだ土をこそぐように奴隷は手を洗う。排水溝へ全てが吸い込まれていった。
「やはりあなたの目からみても、あの庭は気になったのでしょうか」
 カップのふちを指で撫でてから手に取ると、わずかに顔を赤らめた飼い主へ目を戻す。お恥ずかしいばかりですと小さな声がした。短い呼吸の後、飼い主は奴隷へ誤魔化すよう明るい声をかけた。「しかし、ええ、あなたのお陰で庭もきれいになりました」奴隷は静かにカップを傾ける。「今度の市場では種でも買いましょうか」あなたの好きな花でも。
 時雨のように落ちた声が波紋を作ると、床には地下への扉ができていた。飼い主が取っ手を掴み引き上げる。漏れ出す空気に古さはなく、またカビ臭さもなかった。燭台を手にした飼い主が、焦げた芯へ息を吹きかけるとすぐさまに柔らかな火が灯り、くらい階下への道を示そうとしていた。段数はさほどない階段を降りてゆくと、そこそこ広い部屋へ出る。飼い主が足を踏み入れると、熱のない光が灯り一面を照らし出した。書物と植物と、動物と、鉱物と器具とであった。燭台を狭い机の上へと置いて本棚へと向きなおる。古めかしい背を指の腹で辿っていく。「私の生業と申しましょうか」一冊の本を手にして奴隷の前に立つ。本を開き、飼い主はそのページを奴隷へと見せるように傾けた。「あなたにはそれを手伝ってほしいのです」奴隷は紙面に落とされた墨の形を眺める。曲線が踊る中に、角を持つ生物が画かれていた。頭蓋をあわらにし、木を織り交ぜた角を生やしたものだ。
 相変わらず奴隷に仕事という仕事は与えられなかった。水を庭へと捨てながら、先日に毟られてそのままの草の山へと目を向ける。山というほどの高さはないが。奴隷は己の手を見た。無人の家屋と、飼い主が引きこもっている家も見て、ひび割れた石畳と立ち上る静寂に耳をすませた。目を閉じる。
 市場の喧騒にあっても、飼い主の足取りを奴隷はしっかりと追いかけている。極彩色の波紋はどこまでも騒がしく、普段二人が過ごす場所から真逆に位置していた。奴隷の手には袋詰めされた食料があった。道の合間をかいくぐりながら、細い道へ入り込んでいく。右手には脂をひたいににじませた男が、口を歪めて奴隷の顔を見ていた。飼い主に声がかかるも、聞こえていないのか、立ち止まることはなかった。道を挟む家と家にかけられたロープには、軽い布がかけられ風にはためいている。空を覆い隠す布の波が光を通して、道に落ちる影がまた様々な色をにじませていた。飼い主は突き当たりにあった緑のランプを燈らせる家の戸を叩く。一言、二言交わされてゆっくりと扉が開く。目深に被ったローブと、白磁の面で姿はわからない。奴隷は後に続いて家へと入る。中にあったものは植物であったが、その種類は大げさなものだ。飼い主はここにきてやっと奴隷へ声をかける。「ここならあなたの国のものを見つかるのではないでしょうか」奴隷は蜜色の目と視線を合わせる。荷物を持ち直して、並ぶ植物へ目を向けた。鼻をならす。
 鱗片状の葉伸ばす小さな鉢を手に、飼い主と奴隷は店を出た。それから数種の種も。あなたはこれの効能を知っているのでしょうか、と飼い主はぼやく。奴隷を見遣って、知っているのでしょうねとも。あなたの体躯は戦うものだ。奴隷は再び人ごみへ足を踏み入れると、雑多の中を見回した。右手と後ろを二度、左手の家の窓、飼い主の斜め前で買い物をする人間とを見、寄り添うように足を揃えた。飼い主は驚くようにわずか目を開いて奴隷を見上げ、目を瞬かせてから小さく笑った。声の折り重なりが解け、静寂の懐に入るまで奴隷は飼い主の横へと並んでいた。家の前へ戻るまでにもしばし立ち止まる奴隷を気にすることなく、飼い主はゆっくりと歩みを続けた。「私は、あなたが一人外へ出られてもとがめはしませんよ」そう声をかけるも奴隷は聞いているのか聞いていないのか曖昧な様子だった。
 家へ戻ると、鉢からの植え替えと、種を蒔き、食事をとった後、同じ時に浴槽の中へと座り込んだ。飼い主は最初の時以来、奴隷を共にしていた。奴隷の指が境を撫でて、鉄の補助具を取り除くのを眺めている。そうして、空の湯船に湯をはるのだ。決まった作業のように繰り返す、日の終わりだった。「曰く、男同士の裸の付き合いは、親睦を深めるに効果覿面なのだそうです」どうです、と伺う飼い主は問いかけるが、返事がないことに気を悪くした様子はなかった。湯の中で飼い主と奴隷の肌が触れ合うと、揺れる水面が色合いをかき混ぜる。飼い主は毎度のこと奴隷の体に感嘆の息をはいては、引き上げられた腕の硬さを指先で撫であげている。
 電話の相手へ落胆の声を出す。飼い主は疲れた表情をしていた。「どうしようもできないのでしょうね……ええ、構いません、あなたに巻き込まれろと言うつもりは……ええ、ええ、お気になさらないで、いままでありがとうございました」受話器を置いてしばらく、飼い主は奴隷の視線に気がつくことはなかった。ややあって、笑みの中にため息を忍ばせて飼い主は奴隷をみた。「ここでは、魔術師はあまりよい目で見られてはいないのですよ」奴隷の横を通り過ぎた飼い主の背に投げかけていた視線を外し、先ほどまで使われていた電話機を見た。踵を返し、台所へと向かう。小さな桶に水を入れて奴隷は外へと向かった。薄らいだ日差しは、肌寒さを運びつつある。庭へ水を撒きながら、奴隷は道の先をみつめる。何者も来ることがない静寂の壁のままだ。水が撒き終わると、鱗片状の葉と別の葉をわずかにちぎり家へと戻っていく。飼い主の気配はない。床を見てから、台所へと戻り桶を元の場所へと置く。戸棚からすり鉢、箱から牛乳を取り出す。先ほどの葉を細かく潰しながら牛乳を混ぜ合わせていく。三種がすっかり混ぜ合わさる頃、飼い主は姿を現して奴隷の手元を覗き込んだ。奴隷は、飼い主の使うマグをとって、すり鉢の中身を注ぎ込む。私へ、と飼い主は首を傾げ、礼を言い、迷うことなく飲み干していった。「不思議な味がしますね」空のマグを奴隷へと手渡して、飼い主は自室へと戻っていった。奴隷は使い終えられた道具を洗うと、倒れこむ音がした場所へと向かった。扉を開け、床に這いつくばる飼い主を抱きおこす。ベッドへ横たわらせると、柳の腕がしなり奴隷の服をつかんだ。弱々しくすぐさまに解ける力だ。奴隷は赤らんだ飼い主の顔を眺める。奴隷は窓を見上げた。服を掴む手を引き剥がして立ち上がる。部屋を出てから、階段と玄関を交互に見、玄関へと向かう。外へ出て庭の中を歩む。隣家との間に男が二人いた。奴隷は後ろを振り向いてから、前へと向き直る。平均的な体躯の持ち主たちである。奴隷は男たちへ歩み寄る。
 引き絞られた弦がわななくと、風を切った音の後に遠くで雪がわずか散らかる音がした。市場で買い求めた弓と矢は、冬の森の中に狩人の姿を作り上げている。奴隷の後に続いて飼い主は雪原をふみ鳴らす。葉の落ちきった木々が並ぶ森は、風が吹き響く音は芽吹きの時期から程遠い。しばらくして、頭蓋を撃ち抜かれた白兎の死骸が姿を見せる。飼い主は声をあげた。「あの距離からよく見抜けたものです」奴隷はちらと飼い主を見てから、兎の頭蓋から矢を引き抜く。腰に携えていたナイフを引き抜いて首へ潜らせて、骨を割ってから腹を一直線に引き裂く。内臓を切り離して放り投げる。砕いた骨を取り除いて、切り込みから裏返すように捲りあげて、血の降りかかっていない雪へと押し付けた。雪へ滲み出る血を眺めながら、飼い主は奴隷の手を動きを眺めていた。兎の体をひっくり返して、固めた雪で中を拭いながら奴隷は手元を見続ける飼い主を見た。目があったのちに空へ顔を上げる。飼い主の薄い唇が震えた。「そうですね、先ほど見つけた山小屋へ戻りましょう」
 うち捨てられた山小屋ではあったが、元のつくりの良さからか、崩れる様子は皆目なかった。中は仕切りのない一つの空間で、石で作られた調理台のようなものと、暖炉があるだけだった。飼い主はまず小屋の四隅へ鉱石を置くと、数秒言葉を紡ぎ続けた。のちに隙間風が止まり、風による振動も収まっていた。次に埃と腐った木が置かれた暖炉の中へまた一つ石を放り投げる。一言落とすとすぐさまに火が起こり、部屋の空気を温めてゆく。「ではあなたの仕留めた兎でスープでも作りましょうか」飼い主の声に、奴隷は炉の火から視線を外して側へと歩み寄った。
「生ではいただけませんよ」飼い主が眉を下げて言うと、奴隷はそれを炉にかざして炙っていく。脂が数滴落ちて、黄金に焦げ目がつくのを確認すると、飼い主のスープへとそれを入れた。「あなたは肉を調理すると必ず入れてきますね……」スプーンで掬った小さな脂肪を飼い主はゆっくりと口に入れる。頬が緩慢に動く。ん、と小さく声を漏れた。飼い主は眉を寄せて噛み締めている。飲み込むまでの動作を見ると奴隷はスープの中の肉を口にした。
 広げた布を体に巻いて飼い主は奴隷へと身を寄せた。爆ぜる火を眺めるうちに、飼い主の目は開いているのかも危うくなっていった。やがてゆっくりと体を倒して奴隷の膝へと寝そべるように頭を押し付ける。寝息が聞こえるのはすぐのことだった。奴隷も爆ぜる火を見つめながら目を閉じる。
 二人は三日、森の中にいた。飼い主の今回は引き上げるとの言葉に森から出て、近くの村へと降りていった。宿屋に部屋を取り、ベッドが二つ並べばあとは大した空間もない部屋へと入っていく。「そうすぐに見つかるものでもないのでしょうね」と飼い主はひとりごち、ベッドへ腰掛けると裾ををたくし上げ、肉と鉄を切り離す。そのまま横になり、背を仰け反らせるようにして体を伸ばしていた。「けれども良しとしましょう。白い鹿を手にいれたのですし」あなたのおかげですね。奴隷は笑う飼い主の声を聞きながら目を伏せた。ゆっくり休んでください、とぬかるんだ声が響く。奴隷の瞼を白い鹿がかけていった。射抜くのは容易い。静かな呼吸がより一層に隠れた音になる。奴隷は目を開いて横たわる飼い主を見る。欠けた先で広がるシーツを見ている。
 窓ガラスの割れる音が響くと、頼りない肩が大きく揺れた。隈のできた目を細め、飼い主は立ち上がり窓から外を眺めていた奴隷の横へ並び立つ。「いままでありがとうございました」奴隷は細い声を紡いだ男へと振り向いた。薄い唇を歪め笑む男は、ひたいを奴隷の腕へと押し当てる。「うまく逃げてくださいね」階下から怒号が聞こえ、物が倒れる音が続いている。奴隷は再び窓を見た。家の中への道が拓けたからか、人々の姿はすぐそばにない。細枝の腕を掴む。男が唾を飲み込んだ。階段を荒々しく登る足音が重なる。木とガラスが壊れる音が部屋に響くのと、猛る人々が扉を破ったのは同じであった。
 乾いた砂は町中の地面に散らばっている。砂漠の合間を縫うようにできた街では、風が吹くたびに砂が潜り込んで来る。練った泥で作られる家と家を通り過ぎ、人の集まる広場へと出る。強く輝く日差しを気にすることなく人々は歩んでいた。男は後ろを歩く奴隷を振り返った。ローブで顔は隠されて、今どこを見ているかは定かではなく、引きずる足は重たそうである。「はぐれないように」と男が言った。奴隷の手を取る。その手にはふさがったばかりであろう傷が散らばっていた。落ちる熱気でにじんだ汗が、絡まった手の間で広がっていく。歩みを進める男へ声がかかった。屋台の呼び込みをしていたのだろう。
「今日はいっとう暑いでしょう、おひとつ買っていきませんか」店主の声に、再び奴隷を見て、ひとつ、と男は返した。冷えた果実と交換に、古びた硬貨を手渡す。手にした果実を奴隷へと渡す。男は店主へ宿を聞き、指し示された方角と場所の説明に頷いた。男は歩もうとし、止まったままの奴隷の腕を軽く引く。ゆっくりと顔を上げた奴隷が足を踏み出すのをみとめてから、店主の指が示した先へと歩いていく。水路沿いに建てられた宿が見えて来ると、あたりの景色は多少の変化を見せていた。馬に餌をやっていた男に、宿を指差して首を振る。日は少し傾いていた。伸びゆく影のように遅々とした歩みで二人は宿の扉を開けた。入ってすぐの間は食堂も兼ねているようで、並んだテーブルにはわずかに人が腰掛けてめいめいに食事をしていた。食事を運んでいた女が二人に気づくと、カウンターへ声がかけられる。酒を注いでいた男と会話をする間、奴隷は窓を眺めていた。一階の角部屋と男は言い、袋から硬貨を取り出してカウンターへと置く。食堂を抜けた先、突き当たりの部屋の扉を開ける。ベッドと、机と、衝立の向かいに大きな桶が置いてあった。窓からは水路が見える。机に荷物を置いてから、男は奴隷が被っていたローブを取り払った。それから手に持たれたままの果実に気がつくと、食べなかったのかと聞いた。奴隷は黙ったまま目を伏せた。目の縁を飾る睫毛がわずかに震えた。奴隷の手を掴み、ベッドへと引きずり倒す。こわばった体を無視して、男は奴隷の服を脱がせていった。細やかな傷がわずかについた白磁が目に映る。男の指が輪郭を撫で下がり、鈍色の足、生皮の境へ指をかけた。横たわる無力さは抵抗せずに男の為すことを受け止め続けていた。逃げることができない体が呼吸に沿って動いている。窓から気まぐれに裾をちらつかせた光が太陽が落ち始めているのだと知らせた。明るみにあった部屋が少しづつ影に支配されていく。時雨の音が男の鼓膜を打ち、水底へ鎮めようとしている。柔らかで乾いた肌へと手を触れさせる。ぬかるみを形作る肉に指を埋めていく。吸い込む空気は湿り、蒸したつ熱が男の体を確かに炙り始めていた。男は背けられた顔を表情を探った。熱が必要であった。汗のにじんだ体を撫で上げる手を止めて、唇を噛み締める男の顔を眺める。薄い瞼を縫い付けられたように閉じる男の顔を眺める。布を剥ぎ取られ刻まれた文様を晒す男の顔を眺める。ああ。男は作り上げた無力なしるべを抱き上げた。いびつに喉が鳴る。希うよう震えた声に返される言葉はない。隠された瞳が男を見返すことはなく、ただ燃え上がる男の熱に焼き尽くされるしかない体であった。灰燼の魂を救うもののみが、折り重なる傷の腕の中にいる。男は故郷を手に入れたのだ。