elden ring-3

火山館の熱く蠢く空気とは真逆の、全身が萎縮して潰れるような大気があった。兜の中に蟠る空気を吸い込んでディアロスは隣に立つ男を見るも、反応がないことが分かると目前の景色へと視線を戻した、遙かなる冷たき世界、白銀が照り返す鋭い光の中で、しかし呼吸は固く痛みを伴うものだった。禁域の先に見えた、ロルドの大昇降機。途方もない上昇の後に至った山嶺はディアロスへ一歩を躊躇わせるに十分で、彼は全てを指して兄のようだと感じていた。
英雄になろう。
誘われた屋敷の一室で失意に陥る背に投げ掛けられた言葉だった。タニスから渡された手紙は未だ赤く染まらず、いつまでも最初の一通だけがディアロスの手の中で握りしめられている。英雄の道は汚穢にあり、勇み踏み込んだ場所にいたのは使い古された甲冑を纏った男だ。彼の装具はいくつもの傷を帯びて変色し錆色を宿し始めている、手入れをかかさなくとも最初の輝きはないのだろう。それは誇りある姿だ。ディアロスを目に留めると男は一言放った。「ホスローの者か」いかにもとディアロスは肯定する。
「あのホスロー家から排律者が出るとは……」
結果としてディアロスは一太刀も浴びせることが出来なかった。地へ伏し、土埃に塗れて痛みに呻くディアロスを見下ろすと男はただ逃げろと告げる。
「君はまだ若く、無知だ」力無き者への慈悲だったのだろう。「そして、何者も手にかけていない」
ディアロスは唸って拳を握りしめる。
「ユーノ・ホスローを前に許される過ちはない、逃げて生きなさい」
静かに落ちる雪の合間を歩きながら、ディアロスは英雄という言葉を思い出す。赤く染め上げられた手紙が差し出されたのを震えて受け取ったのだ。それは男のものであったが、ディアロスと褪せ人の間には大した交流もなく、なぜ自身へと手紙を渡してきたのかは分からないままだ。腰にぶら下げた袋から手紙を出す、封蝋の剥がれた手紙はしかしディアロスが内容を知りえぬものだ。
「すまないが、そろそろ誰を目指しているのか教えてもらえないか」
男は手紙を読めと言いたげに肩をすくめる。こうして手元にあるものの、人の手紙を読むことは、どことなく居心地が悪く憚られる思いがあった。ディアロスは諦めて封筒を開くも、薄く現れたあばら屋の影と、その人影に手を止める。大きく湾曲した角が目立つ花咲く兜、それは憧れ続けた男の姿であった。
血潮の騎士 ユーノ・ホスロー。
偉大なるホスロー家当主、兄が行う誓いの姿を前に、ディアロスは何も出来ず立ち尽くしていた。

***

装具の合間を縫って巻き付いたのだろう、倒れ込んだ男の四肢は裂け夥しい血を雪原に撒き散らせて倒れている。血に沈んだ雪の合間、汚れることのない場所でディアロスは近づいてくる兄から目を逸らした。握りしめた手の中に曲がり潰れた赤い手紙が見える。この中にある名は兄のものなのだ。逃げろと火山館の刺客に言い放った男の声を思い出す。ユーノ・ホスローは過ちを許さないのだと。だがディアロスには分かっていた、兄は己の蛮行を許すだろう。獣物にすら劣る今この時すらも。手が伸ばされ、手紙が取り上げられる。刺客の証明を眺めるユーノの合間からディアロスは倒れ動かなくなっている男に目をやった。僅かに身じろいだようにも見える。ディアロス、と兄の声が降りかかる。身を強張らせて黙る姿に何を感じているのかも分からぬまま、ディアロスは耐えるように黙りこくる。ユーノの両手が兜へと添えられると、ディアロスは寒々しい雪原へと素面を晒すこととなった。凍った空気が皮膚を滑り、反射で強く目を閉じる。今一度、呼びかけられるとディアロスは諦め瞼をゆっくりと開いた。兄の豪奢な鎧は男の血に塗れ、銀の花はいまや赤く咲き乱れている。兜の奥に収まる目が合わさろうかという最中、兄の背後から皮膚を掻き毟られた血の腕が伸び上がる。背後から掴み掛かった男が獣物の唸りと共に頭を振ると、両目から迸る火があった。狂い火。男は兄の首と兜の尾とを掴むと、その体を反らさせる。のけ反った兄の手が抵抗を示すも、狂気の刻印と溢れ出た狂い火は躊躇うことなくホスローの装具に潜り込んでいく。兄の、ユーノ・ホスローの叫びが木霊した。轟々と燃え上がる黄金樹にも似た濃厚な狂気の火。静謐であった雪の中、兄の血肉が焼ける臭いが充満する。鮮烈な篝を前にディアロスは力を失って座り込んだ。苦痛に焚き付けられた叫びがやがて弱まる頃、目の前には頽れた炭と装具だけが残った。呼吸がうまくできない、ディアロスは胸元を掻き毟るよう手を動かすも、金属が擦れる音が耳障りに響くだけだった。荒く息を吐いた男は、ホスローの兜を手に取った。持ち上げれば黒く煤こけ肉の剥がれた頭が砕けて落ちていった。兄の首だ。ディアロスは男の動きに抵抗をすることができず、火に巻かれた兜をただただ受け入れる。冷徹な空気が途切れ、焦げた肉と灰の臭いが頭蓋を満たしていく。時折触れる乾いた破片は焼け死んだ兄のものなのだろう。今まで身に纏っていた兜よりも重たいそれの中、ディアロスは男の瞳を見た。兄が最期に見続けた火を捲く苦痛の目。
「ユーノ・ホスローは死んだ」
男が伸ばした手を取って、ディアロスは立ち上がるしかなかった。雪原に横たわる死体を見る。黒ずんだその横に、見知った簡素な兜が転がっていた。ディアロスは笑った、けたたましく笑った。英雄の道は汚穢にあり。これから何をすべきかは、最早、何一つとして分かりはしなかった。