夜明けの空気は未だ冷たく青々しい。目覚めの狭間を縫って走る配達員は息を白く染めながら過ぎゆく景色を横目で見る。小さな路地の光景は気にされることもなく消えていった。配達員の通り過ぎた小さな路地。開けられたゴミ箱の中には詰められた袋に埋もれて手が覗いている。人の手だった。
広いトレーニングルームには数人の男しかいない。いま目立つのは吊したサンドバッグを支える男とそれを殴る青年だった。見守るように二人の男が傍らに立ちその足下では一人の男が座り込んでいる。後ろ手に縛られ口にはダクトテープが貼られている。彼の恐怖をあおるようにサンドバッグの革が軋み振り抜いた腕の勢いに破裂したかのような音が飛ぶ。揺り動かした体重にフローリングが擦れると再び鈍い音が響いた。支えてられるサンドバッグが歪な形に変形していく。青年は最後とばかりに力強く拳を振り抜くと動きを止めた。グローブを外し衿ぐりから汗で変色したシャツを掴んで顔を拭う。
「降ろせ」
サンドバッグを支えていた男と傍らに控えていた男が一人駆け寄って吊しから取り外す。自重にそって床に落ちたそれから血が飛び散った。ジッパーを開けると血まみれの人間がサンドバッグの中で息絶えている。力の抜けた肉体は重いのか男達はその死体を引きずり出すのに苦戦しているようだった。やがて空になった内部は濡れて獲物を飲み込む肉食獣の口内さながらの赤さだった。蹲る男が激しく体を揺さぶって呻いた。次は彼の番だった。脇に手を差し込まれ引きずられようとしているのを身悶え抵抗している。グローブを締め直し青年はダクトテープを外すように指示した。
「助けてくれ! なんだってする! 頼むよ!」
堰き切った命乞いに合わせて額を床へぶつけている。カタクリ様、と控えていた男が伺った。
「お前はまだ十字路に立っていて」
カタクリは震える男の傍に一歩踏み出した。「どの道が助かるか、あれこれ考えてるが……おかしな話だ」続けて男の腹にはカタクリの足がめり込む。蹴り抜かれた体はしかし捕まれたままで衝撃を逃がせずに男は激しい咳と苦悶の呻きを繰り返した。
「とっくに選択は終わっている、お前は歩くしかない」
カタクリの言葉を待ってから男の体が引きずられる。いやだあ、弱々しい悲鳴がぐずぐずと床に転がった。サンドバッグの口が男を招き入れるかというときトレーニングルームにカタクリの名を呼ぶ声が響き渡った。
「ペロス兄」
「お前こんなところにいたのか」
黄色いコートを纏った細身の男——ペロスペローが足早にカタクリの元へ近づく。
「ママから謹慎を言い渡されたのを知ってるだろう」
「ああ、そうだ。だが今はそんなことどうでもいい、耳を貸しな」
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湾岸沿いの小屋の中は蒸し暑く、夏の夜を殊更に感じさせるものだった。ドラム缶の上に置かれた古びたラジオは途切れながらも電波を受信し、ノイズ混じりに民謡を流している。繰り返される2ビートに波音がかすかに紛れ込む。瞬間、視界がちらついた。小屋の中にある二つの電球は寿命が近いのか、時折光を途切らせては頼りなく影を作り出していた。その中、後ろ手に手錠を掛けられた男たちが、パイプ椅子に腰掛け黙り込んでいる青年の様子を伺う。涼しげな格好に反して首元には分厚い布が巻かれて口元を隠している、その姿に一人の男は取り繕い笑った。
「どうしたんだその布」
青年は黙ったままだった。頬に走る縫い目に触れて一言も発することがなかった。その傷は男たちにとって見知ったものである、青年の口が大きく裂け無理やりに縫い付けてある姿を一帯で知らないものはいなかった。その傷を誇りであるかのように歩いていたことも。「おい! 何とか言ったらどうなんだ!」痺れを切らした怒鳴り声が響くと、堰を切って次々と罵倒が奔流し始めたが青年が荒れ狂う声を気にした様子はなく、静かに、深く息を吐いてホルスターからゆっくりとナイフを引き抜いた。光の反射が鈍いナイフは錆び付いて刃が欠けている。男たちが少しばかり声を飲み込むと、ようやく彼らの望み通り青年は声を上げた。
「おれがここにいて、……そんなにもわからねェのか」
立ち上がった青年の影は大きく、男たちを飲み込むに十分だ。暗がりの中で一人の男が叫び声を上げた。青年の手に握られた綻びたナイフが顔に突き立てられている。潰れて刃先を押し当てて「妹がひどい傷を負ってね」欠けた切っ先で無理矢理に切り裂こうとしている。破れた皮膚と肉から血が溢れて男の顔と青年の手を濡らしていく。なぜだか分かるか、青年の問いかけに答えるものはいなかった。男たちは彼の妹を思い出していた、薄紫の髪と柔らかい体をだ。
「……フフ、おれのせいでついた傷だ」
青年の手から男の顔が滑り落ちた。床にぶつかった体は痙攣して、血まみれの顔には深々と傷が残っている。青年は膝をつくとナイフを倒れた男の足に突き刺し、両の手で再び顔を掴み上げた。「恨み言一つくらい言えばいいのに、なんて言ったと思う」見える肉に指を差し込むと青年は傷を広げるように抉り始める。「おれはそのままでいいんだと」肉の混ぜられる音と悲鳴の中、男たちはみじろぎひとつとして出来ずに固唾を飲み込んだ。「甘かった……おれは甘かった!」軋みちぎれる音がする、青年は両手は深く男の顔の中に沈み、割り開くように腕の筋肉は盛り上がっていた。「お前たちを残らず殺すべきだった」鈍い音がすると、男の声は鳴り止んで全身は弛緩しながら小さく痙攣を繰り返して動きを止めた。熱気に押し潰されて静まる場で波打つ音楽は軽快に響き止まらない。青年は男たちの未来へと答えた。
「その言葉は早すぎる」