誘惑の森に流れ着いた藍色のふやけた肉は海水を滲ませながら浜辺を濡らしていた。膨れ剥がれ食い荒らされた肉の形は判断し難く潮の臭いを撒き散らしている。ホーミーズはしかし荒らされる穴の数々に対して特徴的なものに気がつくと一目散に城へとかけていった。惨めな肉を眺める花々の葉がおそらく顔であっただろう部分を撫でつける。斜めに走る亀裂から皮膚が裂けて海草と得体のしれない夥しい寄生虫とが蠢いていてもそれはただ一人の女を示す証であった。

 ビッグ・マムが打ち上がった死体の話を耳にして不愉快な面立ちへと変わったのをペロスペローは和らげようと声を被せた。ママが手を煩らわせることねェ、ここはおれが慎ましやかに悼んでおくよ。苛立って爪を弾く指に手を添えると年月分刻まれた皺へ掌を滑らせる。弔いのデザートを楽しみにしててくれ、ペロスペローの飴細工さながら脆い誤魔化しを受け入れてビッグ・マムは鷹揚に頷いた。ミラミラの実その能力が失われた時の怒りは飲み込んだのであろう上機嫌に笑う姿に一息ついてペロスペローは背を向けると足早に部屋を出た。広く巨大な城を出るのに数分はかかる。
 このことは他に誰が知っている。
 ペロスペローの横を直走るホーミーズは大輪を揺らし、だれも、と答えた。そいつは結構、やるべきことは素早く肉を片付けることだ。城に見合った窓を開け放つと手にしたステッキを振りかざす。飴が溶ける。粘度の強い液体が薄く広がり空を舞った。なめらかなカーブ画く床に飛び乗るとペロスペローはゆったりと動き出した景色を見送った。誘惑の森へと滑り落ちるように。木々は仰々しく道を空け出迎えの姿勢をとった。浜辺に影が浮かび上がる。二つの影は歪であったがそれらの形にペロスペローは安堵し胸をなで下ろした。あら兄さん。かつて人であった肉と両親を分かち合う妹。ブロワイエは饐えた臭いを構うことなく頽れた肉を抱きしめて浜辺へ座っていた。伸び切りふやけた皮は脆いのだろう。新たに破れた穴からまた海水と泥とが噴き出て見ず知らずの虫も同じに這い出していた。踠き多足をうごめかす虫を踏みつぶしてブロワイエのすぐ側に立っていたクラッカーは気まずそうに項を掻いている。ブロワイエ、そりゃ持つもんじゃないぜ、ペロスペローの言葉に肉に埋もれていた細い腕は大人しく離れていった。砂の中に再びねとついた音を立てて肉が横たわる。自重にさえ耐え切れないのかますますその形は潰れていた。ブロワイエは深く呼吸を繰り返した後、兄さんはよかったの、好きじゃないああいうの、とクラッカーに問いかける。ペロスペローとブロワイエの視線を受けてクラッカーは三度ほどの瞬きの後に肉とブロワイエとを交互に見た。いいのか。肉汁を含んだブロワイエの手袋がクラッカーの脇を殴りつけ、本気にしないでよ、と荒れ狂った声が鋭く散らかった。弟妹のじゃれ合いに肩を竦めてペロスペローは肉に向き直る。夏島の海岸や舳先に吊り下げられた餌の臭い。眩しい陽光の下で微かに綻ぶ輪郭だった。ともかく、ペロスペローはステッキで砂浜を叩くと背筋を伸ばす。あいつに知られる前に片付けなきゃいけないな。ブロワイエがそれならと口にする。私の島に埋めてほしい、誘惑の森ではいつ掘り返されるか分からないでしょ。三人の背後ではホーミーズが伺うように動いている。ペロスペローに異存はなくただふと思い出したことを問いかける。そういえば、お前たちなんでここにいるんだ。クラッカーとブロワイエは今更と言った風にペロスペローを見返した。

 ブロワイエは姉を埋めた場所で伸びた蔓を眺めていた。土から芽吹いた一本の奇妙な蔓。先に揺れる一段と見慣れぬ造形の実は満ちる潮の臭いを蘇らせた。アメウミウシの上で姉を入れたビスケット兵を眺めていたクラッカーの呟きが記憶の中で木霊する。奇蹟だな、と。きせき、ブロワイエは繰り返した。手袋を外して腕を広げる。物々しい動きをもって千切られた一つの実は遙か彼方より現れた形であった。
 ハ〜ハハ! ママママ! 驚いた、随分なニュースじゃねェか!
 祝砲の轟音さながらに笑いが広間を駆け巡る。巨大な鏡面を波打たせてブロワイエは母親へと笑いかけた。ママ、私もとっても嬉しい。集まったすべてのきょうだいたちのさざめきを受けながらブロワイエは駆け寄ってくる弟妹たちを抱き上げた。鏡世界にまたいけるの。ええ、ええ、そうよ。鏡世界は再び開かれた。ブロワイエは蕩けて波紋を打つ鏡に沿って歪む兄の姿に目を細める。

 全てが誂えられたかのようだった。何もかもあらゆるが一瞬のためにあった。
 ブロワイエは全身を強く締めつける海の恐ろしさの中で沈み行くブリュレを抱きしめていた。指先一つとして動けぬと脱力しきった体を掻き抱いて頭上に舞う光を見上げる。今ブリュレを助けられるのはブロワイエただ一人だった。空気の泡が口からまろび落ちて離れていく。暗く冷たい水中に兄の叫びは届いてこない。叫びひとつ。そう助ける助けないはブロワイエにかかっていた。ブリュレの顔へと視線を戻す。少しばかり苦しげに歪んだ顔。この時しかない。息苦しさが心臓を逸らせている。体の中が潰れていこうとしてブロワイエは耐えてブリュレの頬に唇を寄せた。大きくなけなしの息を吐き。両手が力なく揺らめいた。ブリュレの体が青褪めた海底へと沈んでいく。水流に揺り動かされたドレスが翻ってそれは二人浜辺で眺めていたカモメの翼だった。ブロワイエは差し込む光から遠ざかる姉の姿を眺め続けた。薄まり濁る意識の中でただただ落ち行く姉を見つめる。引きちぎられそうなほどに巡る血流の音の騒がしさも遠く。ブロワイエは己の瞳から滲んでいるであろう涙を感じた。歓びがあった。瞬間であった。今日であった。この日こそがまさしく

きせきのひ