アクエリアスの最も古い記憶は何かと問われれば、暗闇に穴を開け顔を見せたカプリコーンの愉快そうな笑みである。どうして大甕の中にいたのか、自らの意思であったのかはたまた他者によるものか分からないが、ともかくアクエリアスにとってはカプリコーンの存在こそが古く根を張るものであった。
「あー見えてきやしたよ」
それなりの人通りで踏み荒らされた雪道は、足跡に添い溶けて土と混じり合う。泥めいた道の先に閑散とした村が見えた。家々の煙突から煙が立ち上がり、何かしらの鳥の鳴き声が時折耳を掠めた。アクエリアスは薄汚れた景色から目を離し、リュックを背負い直すように揺すってから横を歩くカプリコーンを見上げる。太陽と雪田の反射が黒い髪を強く照らすが鴉羽と違い沈み込んだ黒色に変化は見られなかった。靡いた髪の合間から覗いた首筋を走る切り傷は昨晩にアクエリアスが付けたもので、半日の間にも薄くなっている様は深く抉るべきだったと思わせた。それで息の根を止めたとてカプリコーンが気にすることはないのだろう。「考え事ですかい」目線が合わさると、アクエリアスは頷き投げ掛けられた言葉を認めた。素直さにか何れにせよアクエリアスの態度を面白がってカプリコーンは喉を鳴らして笑う。嗄声の響きは針葉樹の葉に触れたような聞き心地だ。
「良いですね良いですね、若者はくだんねぇこと考えてこそですぜ」
「くだんなくないって」
じゃあなんです、と促されるとアクエリアスは先ほど思案したものを詳らかに伝えると「くだんねぇ」とカプリコーンが高く笑う。「大人のよくないところじゃん」ぼやいたあたり、村へと踏み入れた。見るからに貧しい村は当然のように人気は少なく、他者を跳ね除けんとする空気が漂っていた。入り口とも言える場所に一軒、数メートル先の十字路の角にそれぞれ、右手の奥に井戸があるのは村唯一の水源だからなのだろうか。暫く歩いてから、カプリコーンが壁に鹿の頭蓋骨を飾った家のドアを叩く。頭蓋骨の大きさはアクエリアスが見た中で一番に大きな造りをし、伸びた角は窓を塞いですらいた。「つくりもんかな」の問いにカプリコーンは首を傾げ「おんや、ムース見たことありやせんでしたか」と巨大な鹿の正体を口にした。ムース。アクエリアスは復唱した。
「開けろナラガン! てめぇいんだろがドア蹴破るぞボケカス!」
家主の無反応さに焦れたのかカプリコーンが怒鳴り次にドアを殴りつけた。荒々しい態度にアクエリアスは驚いて肩を竦める。人を殺すときならいざ知らず、カプリコーンはどちらかといえば飄々とした男で、今のように無頼ぶった態度を取ることは一度としてなかった。家の中で慌ただしい音が鳴る。「壊したら殺すぞ!」とドア越しに怒声が聞こえ、姿を見せたのは髭を蓄えた男だった。ナラガンと言われた男は睨め付けるようにカプリコーンを見ていたが、アクエリアスに気がつくと訝しんで髭を弄る。しかしすぐさまに納得した様子を見せた。げんなりとしてカプリコーンに目をやってから「入れ」と短く招きいれる。我が物顔で入っていくカプリコーンの後を追ってアクエリアスも室内に入っていく。家の中はアクエリアスには用途の分からないものであふれ返り乱雑としていた。呆けているとカプリコーンはアクエリアスの背負っていた鞄をそのまま漁り出す。何重にも袋で包み、最後は皮袋に入れた箱を取り出した。あれは二日前に殺した女の首が入っているものだ。アクエリアスは箱に雪と氷を詰め込みながら「溶けるんじゃない」と言った晩を思い出す。
「ほらよ、お土産の嫁さん」
「ふやけてんじゃねぇかよ!」
包みを開けてナラガンは不満そうに口にする。すぐ骨にするだろが、カプリコーンの返しに分かってないとナラガンは小さく繰り返していたが、聞こえていないといった顔で暖炉側のソファを離すように動かしてからカプリコーンは腰掛け足を放り投げる。手招きされアクエリアスはその足下へと座った。土産の首を手にナラガンは奥へと引っ込んでいった。暖炉の中で弾ける薪を眺めながらアクエリアスは押し黙る。背後で衣擦れの音がする、カプリコーンがコートやら何やらを脱いでいるのだろう。アクエリアスの頭にカプリコーンの腕が置かれ、目元を隠すように伸びた前髪を指先が弄っている。「あいつシコってんな」とカプリコーンが笑い交じりに呟いて、アクエリアスは振り返った。
「それ降ろしていいですぜ、ここに泊まってくんで」
「なんで」
ボタンの外されたシャツの合間からタトゥーが覗いていた。
「なにってあいつが一番下手なんだよ」
というのもカプリコーンはどうやらタトゥーを増やすためだけに閑散とした村を訪れたらしい。道具を抱えて戻ってきたナラガンは、座り込んでいたアクエリアスの体を爪先で小突いて顎をしゃくる。それでも退かずにいれば溜め息と共にカプリコーンの足が蹴り上げられた。床、と一言。ナラガンの指示にカプリコーンは立ち上がる。
「ええ? そこ熱いじゃんなア」
「うるせぇ俺はさみぃんだよ」
渋々とシャツを脱ぎながらカプリコーンは床に横たわる。魚の尾を持つ首の落ちた山羊が火の元にさらけ出された。肩甲骨の近くにはアクエリアスの噛み痕がまだ薄く残っている。ナラガンがどこにする、と指先を背中に押し付けている。アクエリアスはナラガンの背後へと座り直した。
「おめぇな、どうせ売るからってガキに手出すなよ」
先端が針になっている棒を手にし、インク瓶に浸すとカプリコーンの背中にとつとつと細かく刺されていく。どうせ売るから、アクエリアスは二人を見つめた。
「いいじゃないの、使いやすけりゃ買手も喜ぶし」
「だからってなあ」
「なんならこの後、貸してやろうか」
はあ、とナラガンの腕は強めに振られたようだった。刺青が踊るカプリコーンの腕に僅かながら力が入る。アクエリアスは手を開き己の柔らかな皮膚を確かめた。袖をまくり傷跡ひとつとして無い輪郭を辿る。
「今までで一番良い具合よ、友達価格にしてやってもいいですぜ」
「いらねぇよバカ」
アクエリアスが立ち上がっても二人は欠片として気を配らない。「勿体ねえ、試すだけ試せって。ガキの腹は狭苦しくてたまんねぇのよ」たかだか子供一人。「まだ続けるんなら骨まで刺すぞ」鞄を降ろして中を漁る。「長さたんねぇだろ」カプリコーンの楽しげな笑い声の中、アクエリアスは折り畳み式のナイフを手に取った。柄にしまわれた刃を開く。磨かれた刃はアクエリアスの顔をよく反射した。「あー、きもち」窓はムースの角で覆われて、内からも外からも互いを認識することは難しい。「神経イカれてるくせによくい、」アクエリアスは振りかぶってナラガンの首を刺した。両手を使い引き倒すように刃をぶつける。不意打ちにナラガンが倒れた。首筋に沈んだナイフを根元まで押し込めようと体ごと乗りかかる。アクエリアスは肉に沈む感触を追いかける。拳が顔にぶつけられるが、追い縋って体重をかけ続ける。溺れた呼吸が散らばり、吹き出した血があたりに飛んでいく。肘で腹部を殴られついにアクエリアスは手を離して床に転がった。血を吐きながら立ち上がったナラガンの足に掴まる。幾度と蹴り上げられても腕の力を弱めず、体を丸めて重しになる。火が爆ぜる。
「ありゃまあ」
静かになった部屋の中でカプリコーンは場違いに長閑な声を出した。アクエリアスが強張った体を動かして死体から離れる間、カプリコーンはただ眺めているだけだった。血流が忙しない。脈打つ音が頭蓋の中でうるさく響いて、アクエリアスは横たわったままのカプリコーンへと目をやった。床に散らばった針を手にする。
「おれのほうが、下手だとおもう」
成り行きを見届けたカプリコーンがけたたましく笑った。「あー、はいはい。分かりやしたよ」罅割れ嗄れた声が四方八方に弾けるようだった。
「俺と一緒に生きましょうや」
床に広がる血の如く、全身を駆け巡っていた波も引いていくようだった。その中で愉快そうなカプリコーンの顔を見つめ、アクエリアスは己が空洞になったと感じた。すべてが根付いたものの養分になる、なにも残るものはないのだと。