変化は劇的であったが寂寞ともして、一日の始まりを告げるはずのけたたましいブザー音が鳴らないままに目を覚ました瞬間が起点であった。
職員に割り当てられた個室、使い古されたパイプベッドに横たわったままリオは天井を眺めていた。埋め込み式の四角い照明は冴え冴えとした光りを放つが、会社の業務を考えれば無機質さに拍車を掛けるようでもある。朝は少々暇に過ごしてこそ、同期であるスコーピオの言葉をリオは真面目に守っていた。早くに目を覚ました日は、起床の合図であるブザー音が鳴るまで何もせずに横たわることにしていた。彼は活発ではあるものの、惰眠を貪ることも好んでいたが、それが許されるほど精神を弛緩できる場所でもない。だからただ天井を眺めていた。だが合図は一向に訪れず、いよいよ不審に感じ起き上がると髭を剃り、顔を洗い、歯を磨く。人より鋭い歯を持つリオの歯ブラシは傷むのが早かった、けば立ってきた歯触りにうんざりとしながら口を濯ぎ、クローゼットから制服を取る。着替えを進めながら、スピーカーが故障したのかと考えたが、であるならば誰かしら部屋を訪れてもいいはずだ。部屋を出ると不自然なほどの静寂が廊下に横たわって、リオは逆立ち始めた精神を誤魔化そうとスコーピオの部屋に向かった。
結論として、職員の休息用の棟には誰もいなかった。オフィサーすらも見当たらず、ただ静まり返ってリオの足音だけが響いていた。何かあったのかもしれない、しかしそれよりも「また管理人か」と苛立つ方が早く、押え付けていた嫌悪が一気に体中を巡る。どうせまた、どうして俺ばかり。リオの歩みはいよいよ荒く、鋭く大きくなっていった。アブノーマリティ管理施設に繋がる連絡通路を進み、堅牢とした造りのドアにカードキーを翳せば幾度と解錠の音を鳴らしてゆっくりと開いていく。一歩。踏み込んだ瞬間にようやくリオは焦燥を覚えた。背後でドアが仰々しくロックされていく。部屋で着たままのスーツを見下ろし、次に己の顔に触れる。ギフトが生成されない。
「管理人!」
足早に施設を巡るが、やはり人気はないまま見慣れた収容所の有り様だけが目に入る。リオは二度に叫ぶも返ってくるのは反響した自身の声だけだった。コントロールチームから最も近い収容室を横切ろうとし足を止める。ドアに備え付けられた覗き窓から何も存在しないがらんどうとした光景が目に入る。リオは愕然とし、次の収容室を慌てて覗いた。やはり影ひとつない空室があった。
「誰か! か、管理人、どういうことですか!」
何もない、誰もいない、施設を駆け回っては突きつけられる現実にリオの呼吸は大きく刻まれていく。懲戒チームの管理室に飛び込むように入り、パネルの操作をする。電源は生きている、施設は保たれて、だがリオは確認した情報を否定するように画面を殴りつけた。背骨が凍りついた怖気に幾度と殴り続ける。液晶画面にヒビが入り、表示されたデータが歪む。所属職員、リオ。それだけの表示だった。両手で顔を覆ってリオは呻いた、頭を振り顔の皮膚を爪で掻き続ける。皮膚が破れ血が滲んでも止められず、ついに絶叫した。
L社稲葉支部は地下に作られ、出入りはW社の提供する空間転移装置でのみ可能であった。幾ばくかの冷静さを取り戻したリオは出入り用の装置に向かったが、稼働しているものがL社支部内に限定されて、外に出られるはずの装置が沈黙した様子であることに乾いた笑いをこぼす。胸ポケットに差したままだったボールペンが目に入り、彼は細い金属作りで会社ロゴ入りのそれを眺めてから自身の首に突き刺した。ぶつりとした音が体の中に鳴り、首に走った痛みを気にせずに繰り返し続けた。血が撒き散らされていく。やっと血管が傷ついたのだろう噴き出て床に広がる血溜まりに膝を付くと、リオはそのまま倒れ込んだ。空回る呼吸音。視点が合わさらなくなり、ぼやけ黒ずんでいく。暗闇が一面に広がって、リオは目を閉じた。
埋め込み式の四角い照明が変わりなく光っている。
リオは馴染んだパイプベッドの上で力無く首を動かすと、見慣れた部屋にいるのだと理解した。目の奥が焼かれるように発熱して、久方ぶりに涙を流していると感じた。深く息を吐いて、吸い込む。呼吸の中に声が混じり始める。リオは笑った。ただただ笑い続けた。
それが、最初の一日に起きたことだ。
***
あれからどれほどの時が流れたのかを把握するのは難しく、そもそも時が流れていると形容してよいのかすら分からない。施設は動いている、エネルギーを溜める術もないのに。自動販売機にある食料や飲料も尽きることはなかった。リオの記憶だけが続いて巻き戻っているのだとしたら、時間は止まっていると言った方が正しいように思えた。まあ、巻き戻っているか。壊した機材もどのような自害もリオがベッドの上で目を覚ましてすべて真っ新にされているのだ。もしかしたら数百、数千年と経過しているのかもしれなかった。リオは自身の気が触れなかった確信が持てない。ただあるときに気付いたからこそ、いま静かに過ごすことができている。
管理人が俺を使って実験をしている。
それだけがリオの正気を留めていた。たった一人の、この場に存在しない男。古い映画で私生活がエンターテイメントとして放送されていた男を思い出す。だからそうに違いなかった。リオはどこからか管理人によって観察されていることを寧ろ願うほどだった。だがあの男が飽きない保証は、リオは壁に頭を打ち付け唸った。管理人。繰り返してリオは正気を手繰り寄せ坩堝とした精神をまとめ上げると壁から離れて歩き始めた。記憶にある限りで言えばであるが、ここ最近は職員達の部屋を見物することがリオの暇つぶしの方法だった。躊躇いはとっくに無くなっていたし、咎めるものもいなかった。いまや一人であるというのに、リオは自身が捉えている以上に人には様々な面があるのだと知った。リオにしてもそうであるのに、なぜ彼らが目に見えるすべてであると。孤独は自己の機能と人間性を限界にさせる、道徳も理性もすり切れていく。リオは余すことなく職員達の部屋を物色していった。人となりを咀嚼する。情報のみで共同体の幻視を得るのだ、リオは漫然と荒らしていく。どうせ眠れば元に戻るのだし。
アブノーマリティがいなければ用もない管理施設に足を踏み入れたのは、自身の権限でみれるものをすべて見ようと思い至ったからだ。リオはチーフ権限が与えられていて、懲戒特殊権限下であればおおむねすべての情報開示が可能だった。E.G.Oもギフトもない、素のままで施設を闊歩するのにも慣れてきた。リオは何となしに、この状況に陥る前の己の姿を思い浮かべる。様々な出来事を経て、T-01-75から抽出された防具が最後の記憶かもしれない。The Smileと命名された黒い肉と筋繊維で編み込まれ、白い小さな顔がいくつも刻まれた防具だった。足下に視線を落とす。制服が波打って筋が走り出した。そう、こんなのだ。リオは沸き上がり、弾け、形を変える制服をぼんやりと眺めた。不可解な現象には慣れたもので、リオは何も理解しないままに「なるほど」などと納得した。記憶がリオを模っていた。強化ガラスに反射した己の姿を眺めながら、リオは人皮覆いと黒皮のマスクを想像する。空間が歪み、モザイクめいた靄が顔を浚うと目に入ったのは見慣れた姿だった。何者も存在しないこの場所で、体を覆う死体が誰のものかだけが疑問であった。
情報チームに向かう途中、廊下の隅に黒い袋が置かれていた。リオは見覚えの無い袋に浮き足立って駆け寄ると結び目を解いた。中には内臓がみっしりと詰まっていた。血を含んだ瑞々しい臓腑と生臭さを凝視して暫くの間動きを止めていた。管理人は俺に獣物になってほしいのかもしれない。袋の中に手を入れる。どうしてかまだ仄かな温かさを感じ、束の間リオの孤独は血により薄められていた。流石に憐れんだのかもしれない。管理人の恩恵が臭気を放ってリオを誘っている。躊躇うことはなかった。引きずり出した内臓を口に詰め込み頬張る。筋繊維や脂肪の触感、噛みにくく締まりない触感。袋を倒して中身をぶちまけるとリオは蹲りただ貪った。
***
管理施設どころか職員用の棟にも袋と内臓が散らばっている。食い荒らしたものはそのまま残っていて、リオは僅かながらに時間が連続しているのだと感じた。リオの食餌となったからなのかと思い、袋に触れずに眠ることも試したが目覚めたとき袋はそのままに置かれていた。別で管理人の部屋に飾られた写真を破ったが、そちらは戻っていたからどうやら本当に僅かな経過のようだった。あの写真こそ破れたままであればよかったのに。すっかりと生臭さが漂う中、リオは新しい袋を開けると息を呑んだ。白い髪だ。ゆっくりと袋から取り出していく。それは眠る少年だった。エージェントに配布される制服に身を包んだ白髪の少年は、しかしリオを観察しているはずの男だったが、彼は小振りながらも確かに成人した男性だった。腕の中で少年が僅かに身じろいで、それが生きていると認識するとリオは途方に暮れた。指一本と動かせなかった。心臓が早まり脂汗が滲み出ていた。少年の瞼が痙攣して、ゆっくりと開いていった。痛いほど鮮明な緋の目。ギフトも何もかも模ったままのリオの姿が眼球に写り込んでいた。明瞭になる意識と共にリオを認識したのだろう、少年の体が強張る振動に思わず強く抱え込む。高い呻き声が耳を擽った。
「あ、あの……」
苦しげな声にリオは唸り声しか返せなかった。どうやって話していたのかが思い出せない。ただ腕の力を強めることしかできず、少年が痛みに悲鳴を上げた。「か、かん、かんりに、ん」リオの口からようやっと出た言葉はなんとも無様なことだった。ますます強まる力が少年の骨を軋ませる。潰される恐怖にか少年が尿を漏らしたようだった。血肉とは別の臭気にリオはやっと腕の力を弱めた。床にへたり込み泣きじゃくる少年は、やはり管理人に良く似ていた。リオはその顔を殴りつけた。軽い体が難なく吹き飛んで横たわる。恐慌とした様子で全身を使い逃げようともがく姿に、どうにかなりそうなのは自分の方だとリオは思った。
「だれか助けて!」
助けてほしいのは俺だよ。リオは細い足を掴み引きずり寄せる。やだ、と繰り返して暴れる体を押え付けリオは今一度少年の体に顔を寄せる。皮膚の境で熱が蟠っていた。リオは掴んだままだった足を握りつぶした。骨のひしゃげる音がする。こんな場所でアブノーマリティの恩恵があるはずもなかったから、単純にリオの力が少年よりも強く、そして小さな体が脆すぎるだけだった。あっけなさが悲鳴の中に落ちていく。膝を逆に折り曲げる。錯乱した少年が何をしようとリオには関係がなかった。顔を押え付けて耳を掴む。引き伸ばされた皮膚はやがて接続面に亀裂を作り音を立てて千切れていった。管理人の面影が恐怖に塗れてリオから逃げようとしている。逃げることないだろ。俺に何されたって文句は言えないはずだ。だが今リオには凝った趣向は思いつかず、ただ少年を殴り続けることしかできなかった。拳が床を殴った。顔を殴っていたはずだった。すっかり潰れてしまったから、少年の顔は無いも同然だった。砕けた骨が突き破り傷ついた皮膚、散らばった脳漿と骨に絡みついた筋繊維。リオは自身が勃起していることに気付いた。ベルトを外す。下着をずらし、あふれ出た少年の内臓を存分に突き回した。
目を覚まして後、少年がいた場所に辿り着いたとき固く結ばれた袋が忙しなく形を変えて蠢いていた。
「出して! 出してよ!」
少年も自分と同じように戻されているのだ。リオが袋を開けたとき、少年は声を上げて怯えたので記憶すらも残っているようだった。だから、なので、リオは一人ではない。袋の中からもがき出て逃げようとした腕を掴み再び抱き込むと、叫びながら少年は暴れていた。落ち着くまでの間、リオは管理人によく似た顔が浮かべる表情を眺めていた。始まりの日、自分も似たような顔をしていたのだろうか。だとしたら、さぞかし管理人は愉快に思ったことだろうな。疲れ果てたのだろう大人しくなった少年はおずおずと声を上げる。
「ここ、どこですか」
リオは数度の唸りと、歪な発声を繰り返してから答えた。
「稲葉支部だよ」
少年が目を見開く。「うそだ」と唇が動いた。「他のみなさんは?」と続いて、リオはやっと話を聞く必要があると思い至った。
少年は管理人と名を同じくイナバと言った。翼の一角であるL社に入社が決まったばかりで、抽出チームに配属。制圧や他アブノーマリティの管理作業は出来ず、ツール型の性能確認を行っていたのだという。アーム型の機械から伸びた針が脳に質問を送り、それに答えていくものだったと。リオは遠くに追いやっていた最も古い記憶が蘇るようで舌を打った。如何にも管理人がやりそうなことだ。ランクは当時のリオよりも低い、最低ランクの能力値なようで、どうりであれだけ脆いはずだと納得もした。見知った面々の名前を聞きながら、イナバが「リオさん」と言ったときにリオは今まで寄る辺にしていたものが崩れる予兆を得た。
「リオさん?」
「あ、はい……懲戒チームにいらっしゃる方でおれを気にかけてくれました」
タウラスは以前と同じにチーフに就いているそうだ。あー、そういうこと。リオは裡に巻き上がり始めた業火めいた感情を抑えることに務めた。代わりに鈍い笑い声が這い出て、イナバは怯えた様子でリオを伺っていた。
リオは自分の名前を告げることはしなかった。そんなことをするまえに、イナバが今どんな場所にいるのかを知って錯乱することが先だと分かっていたからだ。なのでリオは足下に転がる死体を軽く蹴り飛ばして眠りにつくことにした。自分以外の存在が狼狽え、理不尽に怒り、恐怖して落ちていく様子を眺めるのは新しい娯楽になっていた。リオは錯乱したイナバを楽しんだ。リオのときと違い、イナバには他人がいる。気の触れかたも千差万別なのだろう、縋り付いてくるので抱いたこともある。リオの動きに合わせて薄い腹が膨れ、しぼむ。こういうこともあるのかと身悶えるイナバを見下ろしながら、リオは幼い体温を味わった。その間にも臓腑の詰まった袋は新しく置かれて、ただ誰かが入っていたのはイナバが最後だと何処かで感じていた。これが最後だ。後は誰も此処に来ない。リオにとってイナバはただ一人、孤独を失わせる存在で、正気の楔と変わっていた。だからまあ、こいつがおかしなままでも構わない。そばにいてくれさえすればいい。
「名前、なんていうんですか。おれ教えてもらってない」
ある日イナバはリオの部屋に来て、ベッドの横に座り込んでいた。リオより早くに目が覚めたらしく「静かすぎて死んじゃったかと思った」とぼやいていた。寝相は良い方だ。正気は突然取り戻されるし、もしかすると振り切っただけなのかもしれない。質問に答えないリオに焦れたのか、イナバは立ち上がるとベッドに潜り込んできた。柔らかな温みが体の上に乗り上がる。リオの体をベッド代わりに、イナバはまじまじと目を動かしている。ギフトも何もない顔だ、察していることだろう。
「当ててみてよ」
「聞きたいの。答えて」
リオは管理人を抱きしめると目を閉じた。「ねえ! おれ眠くないから!」と騒いでいたが、やがて力を抜いて身を任せることにしたようだ。空調の音だけが静かに響いていて、最初の一日を思い出す。朝は少々暇に過ごすのが良い。脳から湧き出た泥が意識を絡めて剥がれ落ちていく感覚が繰り返される。夢現つにリオが己の名を口にすると、管理人は軽く身を起こして小さく笑った。