さびた柵の向こうには、ちょっと古びた洋館があって、壁にぬられた白いペンキはところどころ剥げていて、そんなものを隠すように蔦がへばりついていた。無造作に生い茂った草は、おれのひざくらいまであって、たまによくわからない虫が飛んでいる。そんなものだから、どれだけ天気のいい日でも、なんとなしに他より暗く見える場所だ。この家にはどんな人が住んでいるのだろう、そもそもだれか住んでいるんだろうかと、ふとしたときには見上げていたんだが、今日は初めて声がかけられた。振り返った道の先で、真っ白な服を着たおんなのひとが立っていた。「どうなさいました」いや、おんなのひとにしては低い声だ。「おねえさん?」そのひとはちょっとばかり黙ってから、ひとつ息を吐いて「いいえ」と言う。「私は男ですよ、ぼうや」「おれはアーラシュ」「アーラシュ」「うん。間違えてごめん」「構いません。それより、私の家になにか?」そこでおれは、このおんなのひとみたいにきれいな、おとこのひとがこの家の持ち主なのだと知った。心の隅っこにずっと転がしていたなぞが溶けて、そればかりかこれほどきれいなひとが住んでいたことにおれはびっくりしていた。「誰が住んでるんだろうって」解決しましたね、と小さく笑って柵を開けるひとをずっとみていると、そのひとは困ったような顔をして「そろそろ暗くなりますから、はやく家へ帰りなさい」とおれの頭を二回ばかしなでつけた。ほそくてながい指が、かみの合間にもぐりこんでくすぐったい。「また会える?」「どうでしょうね」ながく伸びた草をかきわけ歩いて、そのひとは古びた家のなかに消えていった。さびた柵を掴むと、ざらざらとした感触が手にひろがる。ひとりで住んでいるのだろうか、だとしたら、きっとさみしいんだろうな。名前もわからない鳥がなきはじめると、太陽はすっかりしずんでいたけれど、それでも洋館に灯りがつくことはなかった。
「こんにちは、ぼうや」
もたれた柵越しに雨の日みたいな声が降ってきて、おれは慌てて後ろを振り向いた。きれいなひとは、ひまわり色の目の中におれをまねいてくれている。おおきくあいさつを返すと、そのひとはすこしおどろいてから、元気ですねと笑った。笑った顔はやっぱりどこまでもきれいで、心の中がいっきにあつくなっていく。「学校はお休みですか?」「いってないんだ」するとまた困った顔をして、ひまわりはまぶたの向こうに隠されてしまった。しまった。けどもうおそい、おれがどうにかことばを探していると、そのひとは「では」とためらうように口をひらいた。「私と、お友達になりませんか」ともだち。くりかえしたことばに頷いて、そのひとはおれの返事を待っている。ともだちだって! おれの心はそのひとの目の色をしたいろんな花が、いっきにさきみだれてあふれかえり、いっぱいいっぱいになってしまった。「なる! おれと、ええっと……」「ああ、そうでしたね、私はヴァン・ホーエンハイム・パラケルスス。私の小さなお友達、気軽にパラケルススとお呼びください」おれはどこまでもうれしくなって、柵越しにパラケルススの手を掴んだ。またおどろいた顔をしてから、おれの手をにぎりかえしてくれたときの笑顔は心の中にずっとしまっておきたいものだった。
洋館の中は、外と同じですこし古びたつくりになっていた。毛のつぶれたカーペットにはすこしホコリがまぎれこんでいる。「紅茶は好きですか」「なんでも好きだ!」「それはよかった。では少々お待ちください」連れてきてもらった部屋にはたくさんの本が並べられていて、低めの机とふたりくらい座れそうなソファが置いてある。「これ、読んでいいか」「ええどうぞ」どれも古い本ばかりだったが、その中に見知ったものがあったので引っ張りだしてソファに座り込む。体をつつむようにしずんだソファは、みためよりずっといごこちがよかった。読み進めていると紅茶とケーキを手にパラケルススが戻ってきた。机に置かれたケーキは、パラケルススの目と似た色をしている。本を閉じて横に置き、紅茶がカップにそそがれるのをまじまじとみる。白い器に透き通った紅い水が満たされる。「砂糖はいくつ?」角砂糖が入れられたビンのふたが開けられる。「わからない」「そうですか、ではにがかったらひとつづつ足していきましょう」そういって自分のカップに二つ角砂糖を落とすと、パラケルススは「何を読んでいたのです」とおれの横に座った。あまりしずまなかったソファから、その体は見た目どおり軽いのだと知る。すっとしたかおりがしてきて、それからパラケルススの毛先がおれのくびすじをくすぐった。本を手に姿勢がなおされると、少し距離がひらく。おれは心をおちつけようとケーキに手を伸ばした。「読んでも分からなかったでしょう」「や、前に読んだことがあったから」「そうなんですか? だとしたらお父様かお母様は随分熱心な蒐集家ですね」ケーキは甘かったけど、はさまれたくだものはすっぱかった。
パラケルススは、いろいろなことを研究するひとだといった。「錬金術師というと、おおよその人は笑います」「おれは笑わないぜ」「貴方は優しい人ですね」「そんなんじゃない」おれを優しい人だといってしまうくらいには、この世界はパラケルススに優しくないみたいだ。
今日も柵にもたれて声を待つ。一度、呼び鈴を鳴らしてくださればいいのに、と言われたことがあるが、おれは入ることができない。
「こんにちは、アーラシュ」
この声が好きだ。振り向くとおだやかに笑うパラケルススがいる。そうして柵を開けておれをまねいてくれるのだ、それがどうしようもなく好きだ。
背が伸びましたね、とゆっくりと頭をなでられる。ほそい腰に抱きつくと、薬のにおいにまぎれて甘いにおいがした。このごろは、クッキーを焼いてくれたりしているからそのにおいなのだろう、今日もおれのためにパラケルススは錬金術ではなく、菓子作りをしたんだ。おれは、じぶんの意思でするくせにあまりうれしい顔をしない錬金術をやっているよりも、おれのために焼き菓子を作ってくれているときのパラケルススが好きだった。「まだまだ大きくなるぜ」「それは分かりませんよ」「パラケルススより大きくなる」「ふふ、ならそのときは何かお祝いをしてあげましょう」パラケルススの指が耳をくすぐってくるのに、肩を縮こませる。「ほんとうか」「ええ、約束しましょう」「なら、そうだな、それなら、パラケルススがほしい」「私ですか」パラケルススは呆れたような顔をしている。けどおれが「ずっと友達でいてくれ」というと、困ったような照れたようなどっちともつかない笑顔をみせた。だだをこねるように頭をさらにうすっぺらい腹に押し付けると、苦しいですよ、といってから、わかりました、といって、それから「いいですよ、私を差し上げましょう」と、確かに口にした。きっとパラケルススにとってたわいもない、おれにとってどこまでも重要な約束が結ばれたときだ。
みな悲しみの顔を浮べて道をゆく。その先を覗き込むと、堀った穴に木箱が置かれていた。その上へ人々が花を落としている。
「葬儀ですね。夫人は以前から体が弱い方でしたから」
亡くなったのですね、とどこか遠くをみる目でパラケルススは呟いた。亡くなった。おれはパラケルススの手を握って、その目を覗きこむ。「パラケルススもいつか亡くなるのか」「人はみなそうですよ」「おれの友達なのに」このうつくしい男もいずれあの木箱に押し込められ地中深くへ埋められてしまうのか。力を込め握られた手は、痛いのだろうに、パラケルススは優しく微笑んでおれの背を撫でてくれている。そのときは当分先だと慰めるように言うが、結果が変わらないのならば意味はなかった。これでは足りない。「アーラシュ」静かな声が耳をうつ。弾かれたように体をすくめると、力の抜けた手から、パラケルススの手が抜け出して、おれの体を抱きしめるように動いた。細く頼りない体に包み込まれると、全てが誤摩化されていくようだった。その日はなにをしても集中できなかった、気がそぞろなおれにパラケルススは「帰りなさい」といった。また明日、と。
人というものは異物に対してどうにも敏感だ。柵にもたれかかりながら、通りすがるものたちが「気味悪い男だよ」と口にするのをぼんやりと眺める。ここ数日、パラケルススはどれだけまっても俺に声をかけてはくれなかった。あの静かな声で、俺の名を呼んで、柵を開いて屋敷へと招いてはくれなかったし、どうやら外へも出ていないようだ。窓から俺の様子を窺って、変わらずここにいるのを認めると顔を伏せて部屋へと戻っている。それもこれも噂のせいなのだろう。
「アーラシュ」
さすがに雨にうたれる俺をほうってはおけなかったらしい。苦々しい顔をしてパラケルススは柵の隙間から傘を差し出した。久しぶりにみる顔は変わらずきれいだが、関わらせたくないのだという表情を浮かべている。柵を開いてはくれないのか。
「もう来ないでください」
「なんでだ」
「聞いているでしょう、私と関わってはいけない」
「おまえの口から聞きたいんだ、なあ、なんでだ」
パラケルススはいよいよ泣きそうな顔で俺をみた。それから小さく「傘をさしてください」と口にして屋敷へと戻ろうとする。
「なんでおまえと関わっちゃいけないんだ」
柵を殴りつけた音に過剰なほど体を震わせる姿は頼りなく、かけよって抱きしめてやりたかった。怯えるように振り向いたパラケルススの目には、涙が膜をはっていていまにも溢れてしまいそうだ。「私とあなたが出会って何年経ちました?」道行く人が、心底気味が悪いという顔をして足早に通り過ぎていく。それをみてパラケルススは顔を伏せた。「二十年と少しだ。なあ、開けてくれ」泣いている。傘の柄を強く握りしめて、パラケルススは「二十年あまり姿の変わらない人間がいますか」と吐き捨てる。「そりゃ探せばいるだろう」「私ほどのものは何処を探してもいませんよ」
柵にペンダントが括り付けられていた。隣りから顔を出した女がそれを取ろうとするのに、思わず手を叩くと途端に怯えた顔で走り去っていった。パラケルススはこの屋敷から立ち去ったようだった。俺の元から去ったのだ。細い鎖を引きちぎる。俺に残されたのは、こんなちっぽけなペンダント一つだ。けれどそれに何かを言うつもりはない。「世話のかかるやつだ」あの日、パラケルススは俺のものになると、パラケルスス自身を俺に差し出すと約束したからだ。それがある限り、俺の目がパラケルススを見失うことはない。
山奥にあるその家はひどく朽ち果てていた。木々の合間に、草と苔とに覆われた家は見つかることを恐れるように、ひっそりと建っている。随分と足を進めたこの場所は、人間の領域ではないのだと訴える静寂さが漂っていた。踏み出すと、パキパキと折れる音が鳴る。外れかけそうな扉を数度叩くと、微かな足音が鳴った。腐りかけた木を踏む音だ。ぎこちなく扉が開くと、薄汚れてもなおうつくしい男が姿を見せる。白いシャツが黒ずんでいるのをみて、何着か見繕って正解だったと思う。男は、パラケルススは、顔を歪めると扉を閉めようとするも、そんな頼りない腕で閉められるわけもない。
「やっと開けてくれたな。あの日から随分待った」
見上げてくる目は怯えていた。俺はいつかパラケルススがしてくれたように、その体を抱きしめてやった。荒い息を閉じ込めるようにして、耳へと口を近づける。「俺とおまえが出会って、何年経つかね」ゆっくりと落ち着かせるように背を撫でてやる。微々たる抵抗もやがてなりをひそめて、やがてあえぐように声があげられた。「わか、わかりま、せ、ん……もう、どれほど、経ったのか、」長らく話していなかったのか、その声は掠れていて、音の高さも以前と違いいびつに構成されている。脂とふけにまみれた髪は痛みきって、もう薬品も焼き菓子のにおいも欠片としていない。パラケルススの汚れきった体臭が鼻孔をくすぐった。これも、悪くはない、好きだなと、より強く吸い込む。
「まあ、二百年程度だ」
気力がなくなったとでもいうのか、崩れ落ちようとしたパラケルススを抱きとめる。呆然とし、感情が抜け落ちた目に俺の顔が映り込んだ。向日葵の目だ。「屋敷を買ったんだ、おまえが住んでいたのと出来るだけ近い屋敷を」混乱から抜け出せないパラケルススは為すがままになっている、俺の手から逃げ出すこともなく、薄い体をさらけ出し触れられることを許容していた。「ずっと一緒に住もう」小さく息を詰まらせて音がもれた。目からは涙が止まることもなく溢れ、しかし俺から逸らされることはない。そのことがこの心をどこまでも浮き立たせた。けれど、パラケルススの静かな声がもう一度響いたとき、俺の心は瞬く間に花という花で埋め尽くされてしまった。「アーラシュ、」ああそうだ。おまえの永遠の友人だ。