「俺の名は、ウルフシャだ」
響きはやけに馴染みが深く、横たわる身が感じている寒さを追い払うように温度があった。掴まれた手はそれを凌駕して焼けるような熱さだ、触れ合う輪郭がざらついた感触を挟み込んでいる。雨音に混じり、時折、砂が流れ落ちる細やかな音がした。触れ合う場所からまとわりつくように粘度を持った空気が、這い上がっている気がした。ウルフシャ、と口にして、また噤む。パラケルススは窪んだ目蓋へと再び触れる。薄い皮膚は指先にそって容易く形を変えて、その先には何もないのだと訴えている。途方もない恐怖に満たされて、溺れそうになった心臓があがくように脈打っている。
「私の身になにが」と乾涸びた声が出た。
ウルフシャは掴んでいた手を離し、そのまま座りこんだようだ。まとわりついていた空気がそれと同じに動き剥がれていく。
「お前は逃げていた」
逃げて。繰り返してから、パラケルススは魔術協会の魔術師たちを思い出す。いやに思考へと霧がかかる、明瞭としない記憶は泥濘んでいるかのようだ。魔術による影響であろうか、彼らならばパラケルススが成さんとすることを、どのような手を使っても阻止するだろう。強く息を吐く。両腕に力を込めて体を持ち上げようとすると、抱きかかえられて壁へともたれ掛からされた。ウルフシャの腕であろう。礼を言ってから、パラケルススは決心して己の身についてを問う。
「私の、目と、足は」
「目は半分溶けていたから抉り取った、足も傷口から腐っていたからな」
唇を噛み締める。悪趣味だ、と思った。一思いに殺せばいい、魔術師たちは何を思ってこの身を害したのであろうか、これでは嬲られていたとしか思えない。パラケルススは喘ぐようにして呼吸を繰り返す。「大丈夫か」ウルフシャの声がしてから、空気がまた体にからみついた。背を撫でる手に意識を集中させ、パラケルススは綻び過ぎた理性を必死に紡ぎ合わせようとする。熱い手が背を撫でる速度に呼吸が引きずられ、ゆっくりとしたものになっていく。パラケルススは足の断面に手を這わせた。包帯が巻かれているのであろうそこは概ねは直線だった。柔らかく泥を突いたような感触がして、細かな鋭い痛みが足を駆け上る。
「焼いたんだ」とウルフシャの声が落ちた。パラケルススは、己がどのような姿であるのかを想像することが出来なかった。両目がなく目蓋の窪んだ、両足を切り落とされ焼かれた姿とは。漠然として「助けてくださったんですね」と口にしたパラケルススは、続けて小さく「ありがとうございます」と呟いた。ウルフシャは黙って背を撫でていたが、やがてぎこちなくパラケルススを抱きしめた。霧の中に潜り込んだような空気はざらついていた。流砂の崩れる音を聞きながら、冷たく鉄の臭いがするものへ体を預ける。「甲冑を?」パラケルススの問いにウルフシャは潜めて笑い声を立てる。
そこは森の中で、巨木の根が丘に作り上げた腹の中らしかった。己を誤摩化そうとつちくれと木のにおいが濃厚だと口にする。小さな物音に囲まれながら、パラケルススはどうにか魔力を形にしようとする。だがどうであろうか、あれほど容易かったことが、今では欠片としてやることができない。回路すら見失った感覚に腹の底が重くなる。
「できた!」
ウルフシャの明るい声が響いた。
「ちょいと失礼するぜ」何が、と問う間もなくパラケルススの体は持ち上げられる。しなだれた体が合わさったものは、先日に感じた冷たい甲冑ではなかった。柔らかな布と、ウルフシャのかたい体の感触だ。パラケルススは両の腕を背へと回す。隆起のある肉付きを指でなぞりながら、ウルフシャの体がいかなるものかと思い描く。常ならば、こうした行いはなかったはずだ。暗闇と不自由さに支配された今、己がどれほど容易く脆い存在になっているのかをパラケルススは改めて思い知らされた。ウルフシャがどうということもなく触れる度に、意識する間もなく触れ返して、時には今みたく縋り付いてしまう。ウルフシャの纏う霧の温度が体を包み込むと、それだけでパラケルススの世界は安定をした。すりつくパラケルススの動作は甘えるようでもあった。低い笑い声が耳をかすめると、そっと身を降ろされる。ぱらぱらと落ちる砂粒が皮膚を滑りおちた。
「どうだ、草木を編んでみたんだが」
かたい土の上よりかはマシだろう、ウルフシャの言葉を聞きながら両手を動かし編み込んだという草木を辿る。いまの体すべてが収まる広さだった。これほどのものを編むのは、なかなかの労力だったろう。パラケルススが空へと手を伸ばすと、そっと熱が絡み付いてきた。武骨な手を握り返して軽く引くと、パラケルススの体にそってウルフシャが覆い被さった。霧と砂がざらりと音を立て、絡み合った木へと迷いこんでいく。手首から腕を辿り、首筋を撫でて顎をくすぐる。唇へ指を滑らせてから頬と耳とを撫で上げて、短く切られている髪に絡ませた。ウルフシャの頭を抱きしめて、パラケルススは礼を口にする。胸元を湿らせるウルフシャの呼吸は熱く、そこから体が溶けていくかのようだった。
ウルフシャが何を思って世話をしているのか、当人であるはずのパラケルススには検討もつかなかった。何もかもを世話になっている、何もかもをだ。ウルフシャはパラケルススの排泄すら手伝っている、だが彼は助けた理由すら口にしなかったし、パラケルススも聞くことが出来ないでいた。火の爆ぜる音に混じって、木の軋む音がする。身じろぐ度にこすれあってきしる木の音は、揺り籠の姿を彷彿させた。パラケルススにはいまどれほどの時が経ったのかすら分からない、魔術さえ使えればと裡に意識を潜り込ませようとするも、表層をすべるだけで一向に深くへは辿り着けなかった。ただ暗闇に横たわるだけの時間は、目覚めのとき以上にパラケルススの精神を濛昧とさせていく。足音がした。ウルフシャが狩りから帰ってきたのだろう。思えば、この、帰ってきたという捉え方もおかしなことだった。きっとウルフシャには他に居場所がある、まさか穴蔵に住んでいたわけではあるまい。彼はただ動くことの出来ないパラケルススのためだけに、此処へ足を運んでいるのだ。
「パラケルスス」
声には答えなかった。ただ身じろぎもやめて呼吸だけを繰り返す。革の鳴らす音がしてから、パラケルススの頬にウルフシャの手が触れた。ややしてから熱が離れると、距離を置いて水気を帯びた音が響きだした。狩ってきた動物を捌いているのであろう。一気に血腥さが満ち広がってゆく。ふ、とパラケルススは可能性として一つ思い出したことがあった。この身はそれなりに整っているのだと。ウルフシャという男について、パラケルススは正確に判断することが出来ないでいた。だからもしもで考えてゆくしかなく、そうであったのだとしたら。肉を切り裂く音はどことなく体をざわつかせる。価値のあるなしでいうのならば、一つだ。血の臭いに埋もれながら、ウルフシャの熱い手が次に触れたとき、パラケルススは身を差し出すことに決めた。
「おかえりなさい」
音がやむ。
「ああ……ただいま」
躊躇うような響きだった。やはりウルフシャには帰る場所があるのだろう。
手が触れた時にと決めたものの、パラケルススはいまだ一歩を踏み出せずにいた。足もないのに躊躇ってどうすると笑うも、ウルフシャをこれ以上留めるわけにもいかないのは確かだった。もしも追手がここまできたとしたら、パラケルススは自分を庇って彼が死ぬのを恐れていた。ウルフシャは思うにただの狩人だ。パラケルススは目蓋へと触れて、そっと空洞へ指を潜らせた。なにもない。なにも。
濡らされた布が体に押し当てられたとき、ようやくパラケルススは行動を伴うことができた。ウルフシャの体へもたれ掛かり、首に触れた唇で、ウルフシャの口元までを探った。パラケルススを呼ぶ声は戸惑いを含んでいるように思える。触れたのは乾いた唇だった。舌を伸ばし湿らせるように舐めると、肩を掴んだ手がパラケルススの体を引き離す。「ウルフシャ」と名前を紡いだ。ぎりぎりと力を増す手に指で触れる。もう一度、名前を呼んだ。
「抱いてください」
熱砂がパラケルススの体を浚い尽くしていった。
パラケルススの中に芽生えたものは後悔だけだった。ウルフシャが余すところなく触れているときも、ただ善良なものを貶めている気持ちだけが溢れ返っていた。ウルフシャの息と声は恐ろしいほどの熱を含んでいて、パラケルススの名を呼ぶ響きは異様なほどに泥濘んでいた。熱砂が流れる音はひたすらに耳を打ち、身を揺さぶられているときもたえず意識の中に潜り込んでいた。触れてたどった体の形を思い出す。対価を渡すべきだとは建前だ、パラケルススはウルフシャを繋ぎ止めるためだけに体を差し出した。後悔の中で、まだ間に合うはずだと言い聞かせる。一度だ、一度だけ、と。彼には帰る場所がある、ウルフシャという人格に相応の場所だ。間違っても森の中にある穴蔵と不具者ではない場所だ。優しい者だ。パラケルススに付き合わせるわけにはいかなかった。
初めてといっても過言ではなく、パラケルススはふき出る汗が落ちるのを感じながら腕を動かした。足がないくせにこの体はこれほど重いのか。いまどれほどを動いたのかは分からない、壁にそって這いずる姿はきっと蛞蝓のようだろう。痺れる腕に力を込めて、体を前へと引きずり出す。木の枝を払いのけて、水たまりも迂回する余裕はないだろうとそのまま入り込んだ。暗闇に体を引きずる音だけが響き続けていたが、やがて風が汗だくの体に触れた。出口だ。いっそう力をいれて腕を動かす。伸ばした手が土だけでなく草の感触を伝えた。身を引き出せば途端に空気が変わる。外に出たのだ、全てを終えたような疲れが身を包むがここで終わりではない。パラケルススは手を動かして、周りの道を確かめる。ウルフシャが狩りから戻る前に、なんとか距離を取らねばならない。息を吸い込み、体を動かす。思えばこんな姿で生きることに、なんの意味があるというのだろうか。魔術が使えない以上はパラケルススにとって今の体はただの出来損なったホムンクルスそれだった。死を恐れていたのかは分からない。ただウルフシャだけに埋め尽くされる心地よさへ依存し始めていたのだろう。まともな思考すら捨て去っていたのではないだろうか。
「あっ、」
体が傾き放り出され、地面に打ち付けられる。全身を痛みが覆った。暫くは動けそうにもない。荒い呼吸を繰り返しながら、パラケルススは仰向けになる。このまま、獣に食い殺されないだろうかと、ぼんやりと思った。きっとウルフシャは自分を捜すであろう。見つかるのならば死体がいい、食い荒らされた死体ならば、どうしようもできないからだ。ウルフシャの中に助けられなかったという気持ちは沸くかもしれないが、それでも生きていて彼を捕らえる時間よりかは正常なはずだ。ぱき、と音がした。なにかが近づいてくる音だ。草をかき分けて木の枝を踏みしめる音が大きくなっていく。パラケルススは暗闇の中、それが飢えた獣であることを祈った。もう真横にいる。足音は止まり、息づかいだけが響いていた。汗にまみれた体を空気が撫で、砂の音がした。パラケルススは息をのむ。
左手に激痛が走った。
抱きかかえられたパラケルススはあっさりと元の場所へと戻された。左手の痛みは収まることがなく、体が揺れる度に激しい痛みに息を詰まらせていた。なじみ深くなってしまった編み込まれた寝床に体を横たわらされてからも、言葉はなかった。左手の濡れた感触は血が止まっていないからだろう。パラケルススはそれを耐えて、ウルフシャに言葉をかけようとした。
「あのな」
覆いかぶせるように声が落とされる。
「こういうのもなんだが、俺は捨てるのが上手いんだ」ウルフシャの言葉は唐突なものだ。「上手いってのはまた違うな、まあ、躊躇いってのがないんだろう。必要なら捨てるし、必要がないなら捨てる、それだけだ」
パラケルススは意味を捉えられない言葉に耳を傾け続ける。
「区切りやすいんだろうさ。心機一転ってやつだ。俺は区切る度に、捨てると決めたものを捨てている、そういったものの塵が集まって、うん、俺がいるんだが」
体に手が触れた。明確な熱を灯して動く手に、パラケルススは身を捩り逃げようとするも直ぐさまに押さえ付けられる。
「ウルフ、」
「アーラシュだ」
声が落ちる。
「俺の名は、アーラシュだ。分かるだろう先生」
パラケルススは自分の成り立ちを思い出した。何故思い出せなかったのかが不思議なくらいで、おそらくそれは自分を押さえ付ける男の手によるものなのだろう。寒気と恐怖が体を駆け巡った。ざらざらとした霧が体を包み込み始めているが、パラケルススはそこから逃げ出す術がない。叫ぶようにして開いた口に男が食いついて、パラケルススの悲鳴を全て飲み干してしまう。ぬるぬると厚い舌が口内を這い回り、唾液がこぼれ落ちてくる。呻くパラケルススが力を抜くまで、男は決して口を離そうとはしなかった。上顎を撫で上げながら出て行く舌に体が震える。
男は何というでもなく「左手が腐ってきたな」と口にした。
「私に、なにを、」
「なにってなあ? こいつについては先生のがよく知ってるんじゃないか。俺はお前のものを使わせてもらってるだけだ」
数度しか聞いていない、しかし耳に残った音がした。それはパラケルススの暗闇に深く刻み込まれている、暴力的に光を反射させたものだ。
アーラシュのナイフが引き抜かれた音だ。
目覚めた感覚はあった。しかし暗闇が晴れる気配は一切しなかった。パラケルススは己の目へとそっと触れようとして、顔へ落ちた感触が一つだけなのに戸惑った。それから左肩に触れるも、すぐさまにそれは途切れてしまう。左手が、ない。暗闇の中でパラケルススは喘ぐように呼吸をして、目へと手を動かした。しかし、しかしそこにあるのはただ薄い皮膚が降りているだけの空洞だった。「あ! ッ……ぁ!」恐怖が体を支配する。得体の知れない恐怖だ。そこから逃げ出さねばと、なるも、体は僅かに身じろぐだけだった。パラケルススはいよいよもって絶望に押しつぶされそうだった。ばたつかせた体で動く箇所は一つだけだ。魔術を、としても乱れた精神でそれを構成することは叶わなかった。叫んだパラケルススの体を、おそろしいほどの熱が押さえ付けて、右手を掴むものがあった。パラケルススの恐怖と絶望とに包まれた声がやむまで、その熱は離れることはなく、ひたすらに叫びを受け止め続けていた。やがて声を潜めたパラケルススが怯えるように右手に意識を持っていくと、掴むものが人の手の形だと気がついた。己の身を包んだものも、人の体だと。震える声を抑えきることはできなかった。
「あ……あなた、は……?」
熱が身じろぐと、砂が零れ落ちるような音がする。生温い空気が体を撫でているような気がして、パラケルススは身を震わせる。落ちることのなかった涙を拭うようにして頬を撫でられる。声が響いた。低く、落ち着いた声だ。それはパラケルススの体にゆっくりと染み込んでいくよう落ちていく。パラケルススの体を抱きとめるものは、静かに己の名を口にした。