記憶が確かであるのならば、この両の手を握っていたものはいなかった。ささくれ汚れた木箱からは乾いた音が鳴り続けていて、口を開けばその中で、蛇と、鼠と、虫とが蠢いていた。この体を多くの手が掴み、木箱へと無理矢理に敷き詰める。体が蠢くものを圧し潰す音が耳についた。蓋が閉じられようとして、光の合間に顔が覗いている。親だ、両親は我が子を捧げられるよろこびに心を満たしていた。暗闇が訪れるとまず虫が一斉に皮膚にへばりついてきた。蛇が首を絞めるように巻き付いて、鼠は体を食い破ろうと口を開けた。再び蓋が開かれたのは、三日後のことだった。
「これからよろしく頼む!」
快活な笑みを浮べた青年は、輝く目で辺りをぐるりと見渡した。部屋にいる全てのものの顔をしっかりとみるようにしている動きだ。やがてパラケルススに行き着くと、彼は呆然とその姿を見つめた。パラケルススはそれに気がつくと、暗がりで父親が言い続けた言葉が過り、肺に泥が湧き出たように気持が沈んでいくのから背けるように顔を隠す。窓の外で歩く人々を見つめてながら、授業の始まりを伝える声が響き渡るのを聞く。普段ならばすぐにでもノートを開くのに、どうにも思い起こした父の言葉が金縛りみたく指先まで支配していて、パラケルススの意思は暗がりへ、暗がりへと追いやられていく。チョークが削れる音が響く中、溜まりきった泥が溢れ出ようとする気持悪さを抑えようと顔を伏せた。父の言葉がぐるぐると渦巻いている。パラケルススを傷つけることはせず、部屋の隅へと追いやりひたすらにそれだけを繰り返す父の影が、いまも背に伸し掛かり体を押さえつけている気さえした。
授業が終れば教室は途端に騒々しくなる。鞄を手にすると、人の合間を縫うようにして校舎を出る。降り注いだ日差しの眩さに目を細めながら、階段を降りていく。門へ進む中、明日はどうするかという話題がやたらと耳をかすめてくるのに、パラケルススはそういえば休みの日だと思い至る。次までに提出する課題を思い返しながら、門を出たところで落ち着いた声がかけられる。
「先生、今から暇かな?」振り向いた先では金の髪を日に輝かせた青年が、少し足を速めてこちらに歩んでいる。パラケルススの横へ並ぶと、丸みを帯びた眼鏡のフレームに指を滑らせて位置を直していた。
「こんにちは、博士」
「そう呼ぶのはよしてよ……僕は論文で君に負けたんだからね」襟を正しながら、眉を顰めた青年は僅かに悔しさを滲ませた声でパラケルススに答えた。
「ではジキル、私のことも先生と呼ぶのはよしてください」
「僕のは嫌味だからいいんだよ」
「自分でそれをおっしゃいますか」
ジキルは続けて「図書館に行かない?」と問いかけ、パラケルススはそれに頷いて二人は学生の溢れ返った道へ歩を進めた。道すがらの話題は途中でハイドの話になった。ハイドはジキルの双子の弟だ。しかし本人にこれをいうと、俺の方が兄だ、と言われる。ジキルもジキルで「僕が兄に決まっているじゃないか」と言うから、周りはそのことについて深く考えないようにしていた。
「まったく、この前も僕にレポートを書かせたんだ!」憤るジキルはそのままに「足を折ってやろうかと思ったよ」と過激な言葉を続ける。普段は温厚だというのに、ことハイドが絡むとなると彼はおどろく程の激情家に成り果ててしまう。
「足はサッカーが出来なくなりますよ」
「だからだよ! そうしたら勉強に力を入れるしかなくなるからね」
健全な精神を持たせないと。出来の悪い子に接する態度のままにジキルは溜め息をついた。彼は潔癖の気があるものの、良い友人だった。だからこそパラケルススは、彼に、幼い頃から続けられていることを知られなければいいと願っている。また冷たい空気が体中を巡っていき、パラケルススの呼吸をぎこちのないものにした。いつもそうだった。彼は、己の人生を振り返り、これからを考えるときに決まって冷え冷えとした気持に襲われるようになっている。いまこうして、普通の、なんの異常さもない時間を過ごしていることが悪い夢みたく思えて、しかしどこまでも優しい夢のようで、自分がどういった人間かと思い出す度にすべて失ってしまうことを恐れていた。
絢爛さを備えた場所は厳かな静けさに包まれていて、歩みの音もなんとなしに忍ばせてしまうものだ。高くまで積み上げられた書物を見上げる度に、知恵のすべてが収まっているのではないだろうかと錯覚をする。
「そういえば、今日はなにを」パラケルススは声を小さくしてジキルへ問いかけた。とはいっても彼の声は元々覇気がなく、そうとしなくてもこの場所で話すのになんの問題はなかっただろう。ジキルは数度、金糸を瞬かせてから「漢方」と一言こぼした。生薬学を取っていたことを思い出す。「おすすめとか、ある?」「すみません、東洋のことには疎くて」「だよねえ」そういってジキルは検索用のパソコンへと足を向けた。その背中を見送って、パラケルススも本棚の間をゆっくりと歩き出した。
神について、あれこれと述べる本をぼうっと捲っていく。神は精神に宿るものであると、ならばパラケルススの中にいた神は、とうに見捨ててこの体から去っていったのであろう。だから自身を慰めるものの一つも考えることが出来ないのだ。寄り添う、見守る神がいないのならば、またパラケルススの罪が許される機会もやってはこない、おそらく死ぬまでこの陰鬱とした罪のかたちを心臓にしていかねばならないのだろう。
「やあ」物思いに耽るなかで声が、彼の思考をあっという間に引き上げた。鮮明になった視界を瞬いてから、振り向くと、そこには浅黒い肌をもつ黒髪の青年が立っている。訝しみながら眉を顰めたパラケルススを気にすることなく横へと並び立つと、青年は少し考える素振りをみせてから、困ったように笑って「ついさっきの講義で会ったのに」と言葉を続けた。そこでやっとパラケルススは、彼が明るく人好きな笑みで挨拶をしていた青年と同じであると気がついた。居心地の悪さを感じるパラケルススとは別に、青年はどうというでもなく「何を読むんだ?」と問いかける。パラケルススが思い出しながら「いろいろ、」と濁して言葉を返すのにも気を悪くするでもなく、そうかあ、と間延びした声で青年は本棚を見上げた。
「俺は、あれだな、」そういって青年が上げた数人の作家はパラケルススが好んで読むものだった。青年の指が分厚い本の背を撫でる。「我等の救済のありがたき代償」とえがいた指を見ながら、パラケルススは小さく「私も」と呟いた。青年はすぐさま霞になりそうな声を丁寧に拾ったのだろう、パラケルススに向き直ると朗らかに微笑んだ。
パラケルススと青年の会話は、調べ物が終ったジキルからのメールで途切れることとなった。「まだいる? もう帰ろうと思うけど」青年を伺うと、彼もまた腕時計を見て、いい時間になってると口にした。パラケルススはなんとなく、先ほどまでの会話を思い出して、青年との時間が惜しいように思えた。ジキルへ「もう少しいます。先に帰っていただいて構いません」と返すと、即座に「わかった」と返信がきた。立ち上がった青年にならい、パラケルススも慌てて椅子から腰を上げた。
「あの、同じところまで、一緒に」
青年との時間は驚くほどに心地がよいものだった、パラケルススの好むものを同じに好いているからなのだろうか。話が合うとはこのことか、とパラケルススは感心した。だから青年が「こんなに気が合うやつと会えるだなんて」と「仲良くしてほしい」と言うのに、パラケルススも心から「私もです」と口にする。十字路に差しかかるところで青年はパラケルススの歩みの別の方向を指差して、こっちだからと言った。
「じゃあまた、……あーっと、」
「テオフラストゥスです」
「テオ?」
「えっ、あ、は……はい、」
「ははは、俺はアーラシュ。また明日」
そういってぐっと手を握られる。熱い体温が伝わってきて、先ほどまで見た笑顔と、聞いた話し方とに齟齬のない熱さだと思った。
明日。
パラケルススは、アーラシュの背を見送りながら、明日は休みだと気がついた。それから、パラケルススの心臓を苦痛で速まらせる日でも。やがて人ごみの中にアーラシュの姿が消えるのを見届けて、とぼとぼと帰路へ歩みを進めた。誰かと歩いていると気にはならないが、一人になると途端に道往く人々の視線が、僅かにパラケルススへ向けられることが針を突き刺すように襲いかかってくる。また、父の声が彼の心を鞭打った。先ほどまでの時間がまるで白昼夢だったかのように、悲しいものみたくかたちを変えてゆく。
家の扉を出来るだけ静かに開けると、パラケルススは足音を立てないように自室へと滑り込んだ。それからベッドへ横たわり、アーラシュとの会話を思い出す。けどうまくはいかなかった、朗らかで楽しい時間だったというのに、彼の思考は既に明日のことで埋め尽くされていた。ぎりぎりと体が締めつけられて、血が流れ落ちていくように体が冷える。枕に顔を押し付けて嗚咽を繰り返すパラケルススは、扉が大きく音を立てて開いたことで身を強ばらせた。
「前みたく逃げるんじゃないぞ」父の声がするが、枕に強く顔を押し付け沈黙を返す。
だが強い力で体を向き直され、パラケルススはうめき声を上げた。高い鳴き声がして、彼の眼前に鼠が突きつけられる。ひっ、と息を詰めてパラケルススは鼠を見つめ続けた。「明日は逃げるんじゃない、いいな」父が掴んだ鼠をさらに近づけてくるのに、パラケルススは悲鳴を上げ逃げようとするも、押さえ付けられた体は動くことができない。泣きながら踠き、叫びながら逃げないと繰り返すと、やっと父はパラケルススの体から手を離した。大きく震えながら縮こまる彼を見下ろしていたが、手の中の鼠を絞め殺すと、床に捨てて部屋から出て行った。涙で型崩れた視界に動かなくなった鼠が朧げなかたちで映り込む。全身がとうの昔に癒えたはずの傷を再び開いて痛みを訴えている。パラケルススは小さく暗い箱の中に再び突き落とされた。声の出し方を忘れてしまったように喉は開かず、涙だけがぼろぼろとこぼれていた。
そのまま眠ってしまったのだろう、目覚めるとパラケルススは車の後部座席に横たわっていた。窓から差し込む日差し高くからのものだ。運転する父はパラケルススが起きたことをちらと確認すると、あとはそれきりなんの反応も示さなかった。どうして自分ばかりが、と彼は漠然とした嘆きを抱える。月に一度の集会の日は、パラケルススが幼い頃から参加させられている地獄の日だった。父の手が優しいものだけであると信じきっていた幼さを、裏切られた日でもあった。
「あまり顔を腫らすようなことをするな。今日は大司祭がおみえになる」
知ったことではない。パラケルススは狭いスペースに踞って鼻をすすった。
パラケルススの父は、カルトに心奪われた男だ。幼いパラケルススの手を引いて集会へ参加した頃、まだ彼は一般の信徒でしかなかった。しかしそのときの司祭が、彼の息子を気に入ってから、その地位はにわかに上げられることとなった。彼の教団での地位は、パラケルススによって積み上げられたものだ。そこで息子に何が起きているのか、彼は全て知って、しかしそれは、教団にとって正しい行いだった。金の器に注がれた御酒をゆっくりと呑み干しながら、パラケルススはぼんやりとしてくる頭で周りの信徒へ笑いかける。パラケルススを着飾り、いっそうにうつくしくさせるものたちは言葉を発することもなく、彼の肌を磨いて、髪を梳かしている。轟々と焚き上げられた篝火の中を歩みながら、祭壇へと横たわると、夜空にちらちらと星が輝いていた。星々はパラケルススに声をかけて輝きながら、くるくると光線を残しながら踊りだす。びしゃりと胸元へ水がかけられた。ぬるりとしたそれへ目を向けると、水ではなく赤い花びらだ。花を生い茂らせた山羊の頭がゆらゆらと揺れている。金皿に首が置かれると、黒い得体の知れない影がパラケルススの体を撫でた。拗じ曲がった角が何本も飛び出したそれは、なんであろうか。だがいつものことだった。いつもの、パラケルススは多幸感に包まれながら微笑み、己を犯す悪魔へと腕を伸ばした。
「出身はニューオルリンズの下町だ」アーラシュは切り分けたピザを引き寄せて、くるりと端から丸めていった。ピザを筒状にするだなんて、変わったことをすると思いながら、パラケルススはニューオルリンズにああ、と声を出した。
「一度だけ、行ったことがあります」
「謝肉祭では人が大勢くる」
「違いますよ」
数年前に大司祭が入れ替わったとき、各地の信徒が集まった。もちろん父も、パラケルススを連れてその地を訪れ、新しい大司祭へ挨拶をしたはずだ。数日前の集会のよう、パラケルススは御酒を呑まされていたせいでよくは思い出せない。
「いやに暑かったと、記憶しています」
けれどもその暑さが、気候なのか、薬によるものなのか、はたまた別のものかは分からない。
「どうしてこちらに?」いやな渇きに満ちてきた喉を宥めるように、紅茶を口へ含む。
「俺は映画が好きでね。ハリウッドの神話のが、俺自身の人生よりよっぽど現実だったんだ」アーラシュは最後の一切れを食べきると、手を拭いて、メニューを取り開いた。黒い目は文字を追っていたが、やがて店員へいくつかを注文すると、パラケルススの方へと向けられる。「けどそこに、女がやってきた。俺は彼女を救ってやるべきだと絶望的なものを感じて、」
それでここにいる。置かれたビールに輝いた目を向けると、すぐさまに手に取って彼はグラスを呷った。
「なんですそれ」パラケルススは小さく笑う。
「ウォーカー・パーシー」
知りません、とクラッカーを口にする。「貸そうか」とビールの泡を口に付けたままアーラシュは聞いてくるが、パラケルススは首を横へ振って断った。「昨日、貸してくださったばかりじゃないですか」「そうだった! ピンチョンだな!」声を上げて笑うアーラシュに「ねえ、まさかもう酔ってらっしゃるわけじゃありませんよね」と呆れて口にするも、返ってきたのは明るい笑みだけだ。
「あれ、先生めずらしいね」
二人の間に声が立てかけられる。ジキルは物珍しさを隠すことなくパラケルススとアーラシュを見比べてから、軽く頭を下げた。
「初めまして、ヘンリー・ジキルです。ジキルと呼んでください」
「アーラシュだ。ヘンリーじゃなくてジキルの方なんだな」
「弟がヘンリーと呼んでくるんですよ、そして僕は弟が好きじゃない」
肩をすくめてジキルは忌々しいといった顔を見せる。パラケルススは紅茶を口にしながら、一番に親しくしてきた友人が、新しい友人と邂逅する様子を落ち着かない気持で眺めていた。恥ずかしいような、嬉しいような、そんなところだった。椅子も空いていることだしと、パラケルススはジキルに座るように促す。「お邪魔じゃないかな?」と伺うジキルへ「まさか」と返してから、「いいでしょうアーラシュ」とアーラシュに問いかける。「かまわんぜ」短く口にしたアーラシュは、やはりそこに笑顔を浮べていて、彼はきっと誰とでも打ち解けられるのだろうなという気持ちをパラケルススは抱くのだった。
パラケルススは友人たちとの時間を噛み締めるほどに、家に帰ったとき、父を顔を合わせることがいっそうの苦痛になっていた。喪失の象徴だった。父の顔を見ると、まるで今まで過ごした時間すべてが己の妄想であったかのような気分にさせられたし、不相応だと、パラケルススが手にしていいものではないと、世界中から非難されているかのように立っていられなくなった。父は、教団のこと以外でパラケルススと接触をすることはなかった。それがますます、彼の体と精神に根深く打ち付けられた支配を強固にしている。まるで普通の人のように、友人たちと語らう時間が、許されないことのように。時が経つのはあまりに早い、すでに一ヶ月が経とうとしていた。パラケルススが時を忘れるほどの幸せを感じるほどに、彼を犯す悪魔は寄り添い力強く取り憑こうとする。
集会の前日、パラケルススは家に帰ることが出来ないでいた。眠ることすらうまくできずに隈を作った顔をみて、ジキルとアーラシュはひどく心配していたのを思い出す。ふらつく足を支えるように壁へもたれ掛かる。帰って、眠れば、またあの時間がやってくる。けれども逃げても結局捕まってしまう。以前に耐えきれず逃げ出したときの仕置きが頭をよぎり、体中の血が蒸発したみたく恐ろしい気持が駆け巡った。虫が蠢く乾いた音が波となって頭の裏を引っ掻き回す。座り込んだパラケルススを、誰かが叩いた。
「なあ、大丈夫か」
買い物帰りなのだろう、ものの詰まった紙袋を片手にアーラシュがそこにはいた。
呆然として見上げるパラケルススに顔をしかめると、肩を抱き上げて「歩くぞ」と言った。アーラシュの腕と体はパラケルスス一人を支えたところで少しもよろめくことはなく、世界を支える支柱のようにしっかりとした足取りを繰り返していた。パラケルススの心からじわじわと安堵が滲み出てきて、それは抗うことのできない眠気となって意識を奪っていった。
篝火は燃え盛り続けている。床に跪かされた子どもたちと同じに、頭を引き掴まれる。信徒が赤く焼けた鉄の棒を、ゆっくりと背に押し付ける。絶叫だ、痛みに泣き叫ぶ子どもたちの顔は、苦悶だけが浮かび上がって、世のすべてを怨む隙すら埋め尽くしてただひたすらに痛みに圧し潰されていた。背に、痛みはなかった。司祭が大きく声を上げて、信徒を打ち据える。このなにより崇高な儀式の場に、人の情を持ち込んだのか。怒鳴り声と子どもの叫びが折り混ざり、空へと立ち上っていた。信徒たちは儀式が失敗したのだと、怒りを強く渦巻かせていた。怒りが心を燃やしている。裁きをくだせと誰かが言うと、それはすぐさまに精神へ感染して、誰もが大きく声を張り上げた。違うと否定しつづける信徒が祭壇へと引きずり上げられる。
パラケルススは自身の悲鳴で目を覚ました。汗で濡れきったシャツが体に張り付いている。荒い息を押さえ込んで、パラケルススはそこに見慣れない光景が広がっていることに気がつく。ゆっくりと体を持ち上げると同時に、扉が開いた。灯りを背にして立っていたのはアーラシュだ。パラケルススの傍に寄ると、手を取り、頼りないそれをそっと握りしめる。
「何かあったのか」
問いかけるアーラシュの言葉を無視し、パラケルススは「いま何時でしょうか」と口にする。その声がいつもより掠れていた。「日付が変わったばかりだ」アーラシュの答えに、ほっと息をついて立ち上がろうとすると、力強く肩を押さえ込まれた。そんな調子でどこにいくんだと、しかしパラケルススは早く家に戻らねばならなかった。「離してください」お願いしますからと震える手で肩を押すと、アーラシュは渋々といった様子で手を離す。
「おまえが」ぽつりと低い声が落ちた。
「助けを求めてくれるなら、すべて壊して助けてやるよ」
無理だと思った。過去にパラケルススを憐れんだ信徒がいたが、彼は殺されてしまった。嬲り殺しだ、あれほどおぞましい殺し方をパラケルススは知らない。パラケルススは教団に捧げられた供物だ。何よりも至上の供物とされて今日まで生きてきた。アーラシュがもし自分をあの不気味な恐怖から連れ出してくれたのだとしても、逃げ切れるとは思えなかった。もし捕まって、またあの箱へ入れられたら。震える体を押さえ込むようにパラケルススは踞った。なにより父は言っていた、どの大司祭も心を読むことができるのだと、今はその大司祭が来ているのだ。パラケルススの心を覗かれて、アーラシュや、ジキルのことが知られたら。彼らが教団に殺されてしまったら。それだけは避けなければいけなかった。
「……家に、帰ります」
パラケルススの言葉にアーラシュは溜め息をついたが、ややすると「送る」と一言返した。
大きな悪魔が伸し掛かり、パラケルススの身を引き裂いていた。ぐっと開かれた足の間に逞しい体が割り込んで、突き入れられた肉杭が薄い腹を膨らませている。酩酊としてパラケルススはその雄々しい悪魔へと腕を伸ばす。触れた毛皮の感触は固く、しかしローブの中にある肉体は汗で湿りをおびていた。突き上げられる度に肺の空気が弾けて喉から逃げていく。か細く短い悲鳴を繰り返しながら、燃えるような悪魔が体の奥を抉り込んで、腰を押し付け、まるで雌を孕ませんとする如く獰猛な動きに腰からぴりぴりとした快楽が脳まで走り抜けていく。パラケルススは幸福であった。御酒が見せる世界はどこまでも優しく、彼の望み通りのものを見せてくれるからだ。雄山羊の顔が溶け出して、篝火の灯りと混ぜ合わさると、彼はそのあとに作られるものがアーラシュであればいいと思った。するとどうであろうか、パラケルススの眼に映る姿はそのままに、脳の虚像はアーラシュの姿を確かにはっきりと浮かび上がらせた。いま、すべてが壊されていた。普段の優し気な笑みはすっかり失われて、眉を顰め目を細める表情は、パラケルススを幼い日より求めてきた司祭と同じものだ。けれどパラケルススは幸福である、悪魔よりは、友人に抱かれている方が、よりいっそうに。
「本当にいいんだね」その言葉にパラケルススは頷いた。
ジキルから暫く休学するとのメールが入ったときは、ほっとしたものだったが、こうなっては喜べることでもない。返信をすることもないままのメールでは、ジキルが休学する理由は分からないが、はやく復学できればと思う。パラケルススはようやく、自身がどれほど醜いものであるかを自覚した。父の言葉は真実だったのだ。どこかで違うと否定をしていても、結局はそうでしかなかった。最初から作らなければ、これほどの虚しさも寂しさも感じることはなかったのであろう。門から出ようとしたとき、パラケルススの腕を掴むものがいた。痛みを覚えるほどの力で腕をとったのは、アーラシュだった。パラケルススは動揺した、出会わないようにしてきたというのに、ここにきて。アーラシュは何も言わずにパラケルススの腕を引いて歩き出し、パラケルススもそれに抵抗することなくついていった。何処に辿り着こうとも、いま歩みを進めるこの道は丘に繋がっている気がしてならなかった。通り過ぎる人々が、アーラシュと、パラケルススとをちらりと見る。
「手を、」慌てるように声を出した。「逃げませんから」
しかしアーラシュの手は離されることはなく、ますます力がこめられるだけだった。パラケルススは途方に暮れた。このままではすべての人々が、アーラシュも汚れたものだと思い込んでしまうだろう。「アーラシュ」震えた声で名前を呼びかけるも返事はなく、掴まれた腕はアーラシュの部屋に辿り着くまで離されることはなかった。
「紅茶が好きだったよな、前に教えてくれた茶葉を買ったんだ」
ケトルが火にかけられる。パラケルススは、躊躇うようにしてアーラシュの名を呼んだ。呼ぶごとに彼の魂を穢しているのではないだろうかと、不安がこみ上げてくる。「私、その、帰ります、から、お茶は結構で——」振り上げられた拳がワークトップに叩き付けられた。パラケルススの言葉は最後まで続けられることなく途切れ、形にならない言葉を零すしかなくなった。甲高い音をケトルが鳴らすと、アーラシュは火を止めて、紅茶を淹れる。見知った香りが漂ってくるも、心が落ち着くことはなく、ただどうすればアーラシュから離れることが出来るのかだけが渦巻いていた。
「俺は自分で思ってるよりかは無力かもしれんが、おまえが思っているよりかは無力じゃあないぜ」
目の前に置かれたカップへと、そっと指をかける。アーラシュの手がパラケルススの肩へ置かれると、その熱が服越しに伝わって、どうしようもない気持ちが抑えきれなくなる。頬を伝った涙が輪郭を離れて落ちていく。泣き出したパラケルススの背を撫でて、アーラシュは「なにがあったんだ」と優しく問いかけた。
「私は、あなたとの友情を穢してしまった」血を吐くようにして言葉が紡がれた。
顔を覆い声を上げて泣くパラケルススの体を、アーラシュはそっと抱きしめる。「あなたの友人でいる資格はない」パラケルススの手はしっかりと顔を覆い、その目を塞ぎきっていた。「俺は、おまえがなんといおうと、手放す気はない」優しさに満ちた声を聞いて、パラケルススはいっそうに涙をこぼした。ここで全てを打ち明ける勇気が、なぜ私にはないのだろう、と。
家へと辿り着いたとき、アーラシュはパラケルススをじっと見つめて「それでも俺に助けてくれとは言わないんだな」と声にした。それだけは出来ないことだった。パラケルススは一度だけアーラシュの手を握ると、その暖かさを覚えるように力をこめた。
一週間後の集会が終ったとき、パラケルススが目覚めたのは教団の施設だった。真っ白な部屋にはベットと簡易トイレしかなく、窓は高くにつけられていた。扉の僅かな隙間から、毎日トレーが差し込まれて、そこに置かれた食事を食べながらパラケルススは新たな生活を受け入れていた。
何をすることもなく、ただ集会の度に供物として犯されるだけの生活を。
「ひっ、ぃ、あ、あっああ」
ぐぶりと音が鳴って、また深くへ潜り込まれる。パラケルススは体中の血管が引っ張られたように張り詰めて、ぎこちのない力が入った。悪魔の角を撫でて頭を抱え込む、止まることのない快楽に、パラケルススはただただ声を上げた。燃える悪魔の手が腰を掴んで、より強く揺さぶってくると、パラケルススの目には星がちかちかと弾け飛んだ。くらくらと力の抜けた体が祭壇へと倒れ込むと、金の杯が傾けられた。パラケルススの口へ以前よりも注がれる御酒は、彼の思考を容易く砕き、なにもかもを真っ新にしていった。
狂乱が姿を消しすべてが終ると、気付けばベッドへ横たわっている。パラケルススは一度も意識を保ったまま、ここに戻ることはなかった。腕を持ち上げて、あの日にアーラシュの手を取った掌を見つめれば、いまだ鮮明に、暖かな体温を思い出すことができた。彼はいまどうしているのだろうか。パラケルススのことは忘れてくれているといい、そしてあの優しい笑顔を浮べてくれているのなら——。そっと手を握りこみパラケルススは目を閉じた。アーラシュが眠る自分の手を、優しく握ってくれているのを夢想する。
ニューオルリンズはひどく暑い土地だった。
こんな夏場に篝火を上げる必要はないだろうと思うも、儀式でせねばならないのなら、間違いもなく必要なことなのだろう。不鮮明な視界の中を歩みながら、祭壇へと辿り着く。信徒たちの目が一斉に注がれると、その多くの心にあるものは熱狂と信仰だった。人が求め、人が裁くことが出来る存在は己自身しかないというのに。罪は存在しないのだという証明を他人へ任せる信徒はどうにも、そこいらの人々よりかは信心深かった。司祭たちに促され、暗い視界を辿って祭壇を見下ろしたとき、この目が対峙したものは産声を上げた己の確かな狂気であった。
/われらの狂気を生き延びる道を教えよ